特に転生輪廻の思想にカブレテいたのは、行為行動から類推すれば
谷口健彦であったと思います。しかし愛の行為を施していただいた相手側に、不都合が生じるのであれば、
霊的にはどうか知りませんが、この世的には、相手側は、自己防衛や対抗手段を講じる、権利が生じます。
そこで相手が対抗手段や防衛手段を取れば、争いに発展する可能性も有りますが、何しろ愛の行為なら責任を取る必要がないのであれば、
この世的には、如何に正当防衛を主張しても、論理に勝っても意味がなくなるのです。議論では解決できなくなるのです。
となれば、愛の行為は自分に不都合が生じなくても、相手に生じれば真実なものとは言えないのです。
そこで相手が一目瞭然で愛ではないと解る、対抗手段を取ればそれは
対抗手段を取らせた、愛ならぬ愛を行った方が悪いのであって、谷口健彦の主張する、「互いに愛の行為を施し合う」行為の結果、
対抗手段を取らざるを得なくなった方は、「切磋琢磨」のルールから外れた卑劣な行為を行った者(彼からすればそうなりますが)
ではではないのです。愛の行為を施した結果、相手に不都合が生じれば、相手に問題があるから不都合が生じたのではなくて、
あくまでも行為した方に責任が有るのです。仮に相手に問題が有ったとしても、不都合が起きるようなことは、
愛の名の下に行ってはいけないのです。相手に問題が有ったとしても、それは別問題なのです。
例えば相手を改心させるためであっても、想いは愛であっても
行為の内容は手段なのです。手段としてこれこれの方法を取ったと云う意味にすぎないのです。行ってはいけないとか、
行っても良いとかの問題は善悪の次元であって、真実の愛なら何を行っても良い云う教えを根拠に、
善悪は、愛の次元で捉えることではないと主張するのであれば、行ってはいけないことを真実の愛の想いでもって、行えるものか?
と反論せざるを得ません。何故このような論拠で反論しなくてはならないか?を追求すれば、
彼は愛を手段として行うことに摩り替えていたからです。以上は思想のがおかしいから説明もおかしくなります。
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