現在私は蚊帳の外の存在であるトヨタ、GLAその他を批判や
非難しておりますが、あくまでそれは、自分の(正当防衛の立場)から行っているものであって、例えばトヨタの立場に立って、
GLAを批判や非難したり。GLAの立場に立って、トヨタを批判、非難はしておりません。
勿論客観的な所見は述べており、客観的な見方に基づく一定の理解は示しております。
当ページに関する記述内容は、基本的にはそのような姿勢を崩してはおりません。
上記捉え方に反することを行えば、蜂の巣をつついたような状況が、醸成されると考えるからです。
客観的な見方を排除した行為は、自分の立場を棚上げして
いわば審判者のような立場で行うことであり、それは同時に絶対者が行うことと、同じことを行うことにもなるのです。
こういうことは通常人であれば、ことさらに説明しなくても、理屈としては解からなくても第六感で分かるものです。
しかし、第六感で正しく捉えられないのが、私に養父と主張した山口英一なのです。
絶対者としての見方ではなく、相互間の問題として自分も他者と同じ立場に在ることを、客観的に捉えることができたなら、
家族内もしくは、組織内のトラブルなどは、別件として扱うこともできたのてす。
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私の自称養父がいわば審判者のように自分を棚上げして
当事件に介入した結果、アッチが悪いコッチ悪いと云うような、自分を棚上げした論理が働き、混乱が生じとも推測できます。
彼の性癖でもありますが、混乱させておきながら、収束のために、今度はそれぞれを非難ではなく賞賛を行うのです。
例えばA,Bを融和もしくは互いの理解を促すために、AにはBをBにはAを賞賛すると云う具合にです。
それは全くいけないと言うものくではないとしても、賞賛はそれぞれに対する愛であると取り違えているのです。
但し、この事件に関しては、彼が、自分が審判者の立場で、それぞれの賞賛を行ったとは考えられません。
ための闇雲な賞賛が、何故いけないか?について記せば
自分のために他人を賞賛するのでは、妬みや反感などを生みます。又、客観的に捉えれば、「あれほど良く言っているのに、
(賞賛)された人が何を反発するのか?」と云う不可解な想いを、事情の知らない第三者は抱くのです。
当事者にとって、非難の対象になり得る人に、正当な非難ができなくなれば、その付けを他の人にもって行かざるを得なくなるのです。
非難の対象となり得る人が、混乱を収束するために、自分の責任を認める代わり、他の複数の人にご褒美を差し上げる
などと云うことはおかしいのですが、ご褒美をいただいた人は黙るより仕方がないのです。但し以上関しても
事実の証拠はなく推測に過ぎません
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