宗教組織のトップとして、間違いなく教えを広めることは難しいことも
事実です。至難の業とも云えます。だから教えに間違いが有ったと云うことだけで、殺すなどということは有ってはいけないのです。
但し、この世の刑法に照らして、死刑に相当する罪を犯せば処刑されなくてはいけません。教えや教義について、
後から検証することは容易であります。勿論ある程度の知識や知能がなくてはできませんが、特に宗教的な知識が無くても
社会的な知識が有れば、原則的には誰でもできることなのです。しかし前もって、教えを提示することはむつかしいことです。
但しそれは人間に限って云えることで、神の能力に付いて、私は
とやかく云える立場ではありません。しかし自分に都合の良いことは、神の論理で、不都合があれば人間の
論理で説明されることが有っては、偽者と云わざるを得ないでしょう。人間の能力で宗教思想を、組織を抱えて広めることが
むつかしい理由を述べれば、愛そのものが真実であったかどうかは、この世に於いては結果でしか判別できないのであれば、
後から検証するしかないのであり、前もって、言葉で説明できる性質のものではないからです。愛
は自分が行うことであって、他人に行わせるものではないのですから当然です。
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何事かを他人に行わせることであれば、事の内容や方法を教える
ことは易しいのですが、愛はそうではないから、他人に説明することがむつかしいのです。又、宗教は魂は不滅であると説くものが
大部分です。魂が不滅であると前提すれば<死後の生を認めることになります。因果関係も死後の生に継続されることを前提として、
教えが組み立てられております。いわゆる因果応報の思想です。悪を懲らしめ、善を讃える教えが基本となっております。
そうでなくては宗教とは言えません。仮に因果の賞罰があの世にまで継続されるものであっても、実際にあの世で賞罰がなされたか、
どうか? はこの世の人は確認することができないのです。
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だから、そのように教えてくれた人や言葉を信じるしかないのです。
しかし、この因果の法則のみについて、信じるならば問題は少ないのです。しかし、教えた人を信じるとなれば、
ある特定の部分のみを信じると云う訳には行かなくなるのです。全てを信じなくては意味がなくなります。全てを信じることが、
マインドコントロールの要因になるのです。上記に記したように教団と云う組織を持って教えを広めることは、
非常にむつかしいことではありますが、それを行うならば承知して行わなくてはいけないのです。最初は気が付かなかったけれども、
途中で気が付いたなら、続行する自信がなければ止めなくてはいけないのです。
どうしても自分の想うところを、人々に伝えたかったなら、教団を
解散しても個人的にできることなのです。又、どうしても教団を維持して行いたいと云うのであれば、それは心中に
横道にそれたものがあると解釈せざるを得ません。厳しい言葉<とも云えますが卑しくも、神の使いとであると公言したのも
同然なのですから、破れたりとはとは言え、身の処し仕方くらい分っていものと思います。身の処し仕方も解かっていないのであれば、
間違いを犯したのではなく最初から悪党まやかし者の類がが、仮面をかぶって演技をしていたに過ぎないです。
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