宗教思想の中には、他人に愛や慈悲を施すこと、真理に則った
生き方と云うものがありますが、それらに次いで信じる(人もしくは神)と言うものもが大きなウエイトを占めております。
宗教でなくても信じることは必要なことと思いますが、社会一般に於いては、人々が信じ合える社会であって欲しい、
と云うことでありましようが自分が相手を信じなければ、相手も自分を信じてはくれないのです。それは第六感で解かるからです。
ですから宗教として当然のことであります、が自分から信じなさいと教説します。自分から信じる、と云う宗教的理念が
カルト宗教に取り込まれますと、様相が変わってきます。一般的に考えて、信じるとは何を信じるか?と云うことになりますと
答えはいろいろ出てきます。
主なものとして一つは人間一般であり二つは己自身があります
そのほかに神仏もあります。しかしカルト宗教においては、これらより重要視されるものが在ります。
それは教祖を信じると云うものです。その他に同志を信じるや、教祖を信じることの延長線上に神を信じると云うものも
あるかも知れません。言葉巧みにいろいろな説明はできますが、本質的には教祖を信じると云うものが、一番大きな
ウエイトを占めていると思います。勿論教団によって異なることは当然です。しかしこの教祖を信じると云うものは、
問題があると思います。オームの麻原の例のように、間違った思想の持ち主を妄信することを連想される方が多いと思います。
それに問題があることは、改めて説明する必要が無い<ほど明白なことです。
しかしその他にも問題があるのです。仮に教祖の思想や教えに
全く間違いがないとしても教祖を信じると云うことには、問題が付きまとうのです。勿論、教祖が神の奇跡を起こせる能力が
有るならばその奇跡で、人の心を他を信じられるように養ったり、その他の改善をすることができるなら、
ことさらに教祖を信じることを教えに取り入れなくても、教えを受ける者は、自然に他を信じられるようになると思います。
又、神の奇跡とは言わないまでも、上記に準する教導が宗教組織として本来あるべき姿だと思いますが、現実はそうではありません。
人の心に奇跡を起こせるような教祖は、現実には居ないのですから、教祖自身のたわ言としか云えません。ヘツライや教祖の都合に合うように、
マインドコントロールに嵌めた人々を奇跡が起きたとしているに過ぎないのです。
又、半ば強制的に他を信じることを説きますと妄信以外にも弊害が生じます
どういうことかと言えば、他人にだまされた場合その責任は誰が取るのか?と云う問題も起きるのです。
口には出さなくてもそう云う人もいるはずです。当然のことながら宗教などバカらしくなるのです。
これでは健全な宗教は育ちません。横道にそれましたが本論に戻って、実際に教祖を信じることを想定して考えてみれば、
全く間違いは無いとまで言わなくても、合格点を取れるような教祖であれば、ものの考え方が一般会員より広く深い
はずです。と云うことは信じる方の一般会員は教祖の思想の一部分、言い方を変えれば、自分の都合の良い部分を、
都合のよいようにしか受け取らないと云うことです。
思想を他に伝えるのは特定の人以外は、言葉や文字ですから
文字で伝えればそのようなことはないと、思われる方もお見えと思いますが教義や思想などと云うものは、
事業関係の文書なとど違って、如何に詳しく説明しようとも、それを受け取る方の心の在りようによって人それぞれに
異なった解釈がなされるのです。学校の教師が生徒に教導するような立場なら問題は少ないのですが、
カルト宗教は組織であり、その組織は事業組織の上役下役と同じようにピラミッド型で構成されているのです。
事業所の組織に当てはめて説明すれば、教祖を信じると云うことは、一般会員にとっては部長が社長を信じ課長が部長を信じ・・。
と云った連鎖の流れの最終的な人の言った内容を信じることになるのです。
極端なことを言えば教祖を信じるということは、部長を信じる
ことであっても、課長を信じることであっても、係長を信じることであっても、何ら差し支えないのです。
差し支えの出るような課長や係長は、とっくの昔に首になっているのです。ですので、信じる方は、長を信じていると
思っているのですが、本当は部長を信じていたことにもなってしまうのです。これでは間違いが起きるのは当然です。
しかし教祖が人間ではなく神であるならば、(神の意志や能力を共有できる人間を含む)それであってもも、
間違いは起きないはずですが、現実はそうではありませんので、旧日本軍の「上官の命令は天皇陛下の命令と思え」
と同じ終着駅にたどりつくのです。
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