霊能力を所有しているとしても、過去世らの因果がどのように
審査され、どのように賞罰がなされるか? などは解かるはずかなのです。あの世のことを自分勝手な想像(霊視能力などと云っても、
想像力と紙一重の差でしかないのです。私はそのように捉えております)で説明することはは良いとしても、それが真実である
と断定してはいけないのです。霊視現象を、この世、あの世を通して真実に存在するものと断定すれば、霊視(実際に想念が
象徴の形で存在する現象)と想像(自分で創りだした現象)の区別が付かなくなり、間違った解釈と判断がなされるのです。
私はこの現象を霊界に迷い込むと表現してきました。霊界で迷わない、ためにはこの世ルールを
命綱とする必要があると考えます。
自分が、あの世に持ち込まれた因果を、審査、判断をして賞罰を
行うことなら、大体の予測は出来るというものです。言い換えれば自分が神の立場であるならば、あの世に持ち込まれた
因果の成り行きも、大方の予測ができると云うことなのです。しかし、自分が神ではないのだから、因果の帰結など予測できないのです。
予測できないものを教えの中に取り込めば、間違いか起きるのは当然です。但し、アドバイスなら、自分の想像に基づいた事柄で
行ってもよいのです。間違っていても自分の責任に帰すだけですが、教義は、法則に属するとですの意味が違うのです。
自分が神叉は、神の代理人であるならば、自分の想像の中で創造
全て実在の真実なのですから、間違いだ!などと指摘しても意味がないのです。そのことを前提にして次に進むことにします。
あの世、霊界は時間の存在しない世界であるとされていますが、時間の存在しない世界のルールをそのまま、時間の
存在する世界に持ち込むことは、無理が生じるのは当たり前なのです。一説には、霊界の時間は存在しないのではなく、
この世の時間のように3次元空間から独立して、1つの1次元を構成し、過去から未来に流れっ放しの形をとっているのではなく、
自由に行き来できる形で存在するとされています。
例えば空間の次元に一体化して組み込まれ、独自の次元構成で
造られていて、過去や未来に自由に行き来できる形で存在するとなれば、この世の時間の概念とは別の概念で
計らなくてはいけないと思います。流れる時間ではない時間が存在すること、頭の中で想像することはむつかしいことですが、
この世的に捉えれば、時間が存在しない世界と考えてよいと云うことでありましょう。そのように捉えれば、時間の
存在しない世界においては、永久、永遠、間一髪、制限時間、等などの時間に関する概念も、用語も違った概念に置き換えるか、
存在しないものと考えなくてはなりません。
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この世では通用しない概念をそのままこの世に持ち込んで
はいけないのです。この世には歴然として時間の制限と云う概念が有り、殆どの人為的現象は、その制限時間内に処理
されなくては意味がなくなるのです。当事件にしても制限時間内に正常な形にもどせないならば、責任が生じるのです。
その責任を取ってもらわなくては、当事件に大きな役割を果たしていた私の自称養父は、既にこの世にはいないのです。
無限の時間を費やしても、悪人を改心させ精神異常者を、正常に治さなくてはならないと<云うものではないのです。
叉、例えば、あの世に事態が持ち込まれ、無限の時間を費やしても
悪人を改心させ、精神異常者を正常に戻して、魂の向上を図れれば、教義の間違いでもなければ、責任を取る必要もなく、
それこそがこの世に人間として、生を受けた神、叉は、神の代理人の使命であるとの認識に立った、一連の行為なら、
とんでもないまやかしと言わざるを得ません。この点からも、この世のことはこの世のルールに従わなくては、
秩序は保てなくなるのです。この事件にしても、制限時間があるのです。関係者が死んでしまえば、
あの世で審議されると言うのであれば、とんでもない思想なのです。
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