真理は道理によって追究なされるものと思いますが
道理によく似たものに弁証法と言う論理体系があると思います。
しかし、その論理体系は勝ち負けを争うことを目的とする為、一種の言葉上の
揚げ足取りをすることによって、言葉のヤリトリに関して論理上の勝ち負けが決まる
ものですので、行為行動から切り離された唯の遊戯として行うのならば良いのですが
行為行動に持ち込まれれば、行為行動には善悪が伴い、選択の余地がありますので
唯、単にああ言ったからからこうした、となれば、当然道理に反した結果が生じる
ものと思います。(ああしたからこうしたなら良いとしても、ああ言ったからこうした
では道理に反します)そのような論法は弁証法の延長に過ぎないからです。
言葉上の論理を行為行動に持ち込んだに過ぎないと思います。
こうされたからこうしたでも同じであると思います。
弁証法では、行為の転換、選択の余地に伴う判断や反省の
余地がありません。叱られたから嫌いになったと同類のものなのです。
人情としては理解出来ても、嫌いにならように話し合うなどの努力をすれば良かった
のです。責任は行為そのものにあるのです。殺せと言われたから、殺してはいけな
いのです。殺せ! は極端にしても、「あなたはカクカクシカジカと言ったから
・・では何々をしなさい」と言った類の論理によって導きだされた動名詞は、命令又は
指令とは意味が違います。命令や指令は、それらを出した人にも一端の責任がある
のですが、動名詞には責任と云うものはありません。宗教の中には、命令や
指令の他に、信ずると云うものもあります。特にカルト宗教には
暗に、妄信を義務付けられている場合もあります。
動名詞には責任を持たせることはできないのです。
極端なことを言えば論理、論争に負けたから、人殺しをしなくては
ならなくにったと言った事態も起こり得るのです。とんでもないことになります。
論理の勝ち負けによって正邪が決まるのではなく、(勿論正邪とは何か?を基とした
ものでなくてはいけませんが)正邪は道理に適っているか? 否か?で決まる
のです。又類似に現象に言葉上のものではなく、行為のやり取りに関するもの
もあります。殴られたから、殴り返したのは正当防衛の範囲内のもの
ですが殴られた仕返しに殺してはいけないのです。それは過剰攻撃になります。
尚、他人に嘘を言うと云うことは、言葉上のものではなく
行為に相当するものと考えます。
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