GLA在籍中のことですが、GLAには教えの中に、次元という
概念があり良く使われていました。会員の中には、次元が違う又は次元が高いとか低いと云う概念を、俗に言われる桁が違うなどの、
量の大小を測る尺度のように、捉える雰囲気もありましたが、次元が高いとか低いと云うことは、
コトや物の大きさを比較する言葉ではないのです。どうゆうことかと言えば、例えば1センチ立方のサイコロは小さいけれども、
れっきとした3次元なのです。しかし琵琶湖の湖面は大きくても(広くても)2次元なのです。
GLAでは次元の高いほど(数字が大きいほど)価値も大きいと
云ういう評価がなされていました。ですので、私は反省する場合も、次元を尺度として考えるべきだと思いました。
それでなければ教義に矛盾します。コレを職場での働きなどに当てはめると、部外者の評価、特に公の勤続年数何年などというものは、
全然無意味になります。無意味とは不当なものとい云うことではありません。
ア
私のGLA在籍中の自己評価は、GLAの教義に準じたもの
ですので外部に漏れた言動も、その観点から捉えていただかないと、不都合が生じる恐れがありますので、
お知らせさせていただきます。特に明治時代の道徳に強く影響されている人は、外見は確かに立派な人と云えますが、
道徳的な固定観念に縛られ頭が硬直していて、私としては、大変ヤリにくいひとでもありました。例えば、愛知万博の功績と、
いじめ対策の功績は、(有効であれば)どちらが次元が高いか、考えていただけば参考になります。
さらに云えば、明治時代の道徳に強く影響されている人は
外見は確かに立派な人と云えますが、固定観念が強く機関車のようなもので、レールの上では(既成概念の上では)
人間や社会についても、強力な指導力を発揮できたとしても、レールからはずれてしまうと、全然駄目になるのです。
道徳にこだわって法律を犯すようなことをしてしまうものです。更に々言わせてもらえば、人間活動に影響されない、
普遍的なものに(物理で云えば万有引力や相対性原理のようなもの)思想の基を置かないからそのようになるのだよ。
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