愛とは何か?と云う問いに対して、それは「行いである」と
答える人は多いかも知れません。しかし、これでは答えにはなっていないのです。何故なら、行いそのものには、
盗みや詐欺、背信、狂言なども含まれるからです。そうなれば、そのようなことは解かっている、「愛の行いでなくてはいけない」
との問答が生じることもあるかと思いますが、ではその「愛の行いの愛とは何か?」と云うことが即ち、最初の問いなのです。
盗みや詐欺のような単純なものは、愛でないことは直ぐに
解かりますが思い込みや交換条件、打算などの要素が混入してきますと、その行いについても本当に愛であるか?
貪り(ムサボリ⇒分かり易く表現すれば、奪う愛と云うことで、具体的にはアアシテ欲しいコウシテ欲しい、
愛して欲しいといった感情やコレコレのコトをやってあげたから感謝するべきだ、と云った想いのこと)であるか?は、
にわかには判定できないのです。
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根拠をもって、ある行為が愛であったか?どうか?を
確かめるには、結果でしか判別できないものだと思います。しかし、自分自身の自覚の問題として捉えるならば⇒
いわばマイナスの愛とも言える貪りが、感情の中にあるものなら、愛も叉感情の中にあるものですので、
(正確には、感情に属する、人のために良かれとすることを、してあげたいと云う想い)⇒
自分自身の心の中に去来する感情をよくよく検討すれば、行為として出す前であっても、愛であるか、
どうかは一応の判別はできると思います。
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愛の想いを行為にして現(現象化)したものが、一般に
「愛とは行いである」と言われるところの愛なのです。しかし厳密に言えば、行いとして現象化すれば、コトになってしまいます。
要するにカクカクシカジカの出来事が現象化しますので、それは良いコトか? 悪いかコトか?
の問題で識別しなくてはならなくなります。即ち善悪の問題になるのです。ですから愛とは、行いに出す前の
感情に属する、ああしてあげたい、こうしてあげたいと云う想であると云えます。想いは強くなれば行為として自然に出たり、
出さざるを得なくなったりします。
上記ののような状態から行われた行為が「愛とは行いである」
と言われるゆえんです。但し、おせっかいは貪りである⇒自分に関心を持ってもらいたいと云う、取引条件が混入していたり、
又は自分はこんなに尽くしているのだと云う、自負心を満足させようとする感情が混入している。
注:皮肉にも私は、貪りにしっかりヤラレその結果、愛とは何か? が理解できるようになった者であり、
前向きな意思をもって愛とは何か?を、追求してきた者ではありません。
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