私に最早脅威となる敵は家族しかいないのです。私がウラ事情に
関する事件を公開している作業に関しては、単なる趣味で行っているとしか理解してはいないのです。(2007−01/現在)
家内は私に対して「自分のことしかヤッテいない」と言いますが、それはどう云うことなのか? 何を指しているのか?
精神病院に入れようと云うのか? はたまた、いさかいを起こして幸福の科学に垂れ込もうと云うのか?
それで解決などはしはしないのです。喧嘩になれば、家内は幸福の科学に垂れ込むしかなく、私はインターネツトで
実情を公開するしかないのです。関係者は何を考えているのか?答えていただきたいと思います。
国家公安が私を潰すと云う意図であれば、幸福の科学には何の
責任も問えません。如何に表面で、ああ云った、こう云った、などと云うもので繕おうとも、根本的な意識改革がなされなければ、
感情のこだわりも、事態そのものも、何の解決にもならないのです。家内は、自分に根源的責任がないからと云っても、
協力しなければならない立場にあるのです。私を責めれば良いと云うものではないのです。
自分の愚かさを棚に上げて私を責めると云うことは、足を引っ張っていることなのです。感情の発露が反対では話にならない。
利敵行為になってしまうのです。そのようにさせた全ての原因は蚊帳の外にあるのです。
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事件を作り出したもの、解決を阻害しているものを追求しなくては
いけないのです。家族は、観客席から観覧されている闘牛場の牛ではないのです。元々この事件は、蚊帳の外のそれぞれが、
自分がそれぞれの相手に、原因や責任を追及すべきことを行わずして、感情のはけ口として、自分に支障が降りかからない、
私の方に向けて行われた卑劣な行為に発しているのです。それを指摘しなければ、霊的に捉えれば解決しようがないのです。
この世的な方便で解決したとすることはできても、実相の世界では解決したとは云えないのです。要約すれば、自分が原因、
責任を追求する矛先を、道理筋道で決めるのではなく、それぞれが自分の都合で決めていると云うことです。
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宗教が打算で謝らなくてはならないようにしたり、責任追求の相手も
打算で決められるなら、宗教の存在意義など有りはしないのです。そうゆう風潮を正すのが宗教の一つの役目ではないのか?
宗教は何のために存在してるのか?そうゆうことは、政治や行政で十分間にあっているのです。
政治や行政は、打算で謝ったり、責任追及の相手をすり変えたりするけれども、けっして良いこととは言えないけれども、
本来の仕事も持っているのです。真実の世界からみれば、本来の仕事を遂行するための方便としての、言い訳もできるのです。
具体的な出来事を正すのは、宗教の仕事ではないとしても、思想的にそれを正すのが、宗教の本来の役目であり、仕事ではないのか?
本来の務めができないような宗教は、サッサと解散して、霊魂祭礼商事などの営利会社に衣替えすればよいのです。
講習会参加費用を支払ったりして、指導会員を教導しているのですが、一体何の指導をしているのか?
理解に苦しみます。左の手で真理を説き右の手で商いをすると言うことなのでしょうか?
又、私の思想を生かしていただくとは、如何なる宗教も結構ですが、出費を伴うのであれば利用したとしか云えません。
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