表で裁判ができる問題なら、必ずしも法廷に持ち込むことなく
ウラで妥協もできますが、どうしても表で法律に則った解決ができない問題であれば、ウラで解決するより仕方がないのではないか?
裁判ができない問題に関しては、ウラで妥協ができる分けはないのです。ウラで決着をけると云うことは、(ウラでヤル)
ウラで妥協をすると云う事とは意味か違います。それは、事実を認めて解決するか、認めないで決着をつけるか、
の違いであります。ここで云うウラでヤルとは、ウラに表に出せないようなキズ又は事情がある場合を前提としているのです。
どうしてもウラで妥協する場合は、当方が幸福の科学会員だから
幸福の科学を通して(参加して)なされなくてはならないと思っていましたが、すでに幸福の科学もその力が無くなっております。
制限時間内にできなければ、自分も共犯者になってしまうのです。自分ではできなかったと言い訳できても、
できなくても拘われば責任が生じます。いわんや、自分に有利に働くように、故意に解決しなかったと言われても、
責任を取らないのでは仕方がないのです。(責任を取れば解決するものと思います)力を喪失したと言うしかあません。
ここで言う力とは霊的な表現でありますが、この世的には資格を喪失していると云うべきでしょう。
制限時間に関しては救世主とか神をいただく組織であるか?
は関係ありません。このような事例に関しては、二度と同類の事件を起こさない為の戒めとして、衆目公開の場で、
一度ウラで決着をつけて、今後の見せ示め、教訓とする考え方もあります。その場合誰を殺したら公式に、
表に出さなくて済ませられるか?の問題であるから、(そうでなければ、ウラでヤル意味がなくなる)私が殺されることになっても、
何ら不思議ではないのです。しかし、それでは衆目公開の場でヤル意味がなくなります。大衆、衆目は納得ができないばかりか、
反感を持ち、行政に対して不信感を抱くだけです。戒めにも何にもならないのです。
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