当ページに記す事件は、初めに個人的問題が存在していたのですが
手順を取り入れて、記さなくてはならない性質のもあったことから、一周りして、初めに戻らなくてはならなくなったとも言えます。
二周目の意味を記せば、私の書く内容自体はさして、変わる訳ではありませんが、国の責任が重くなりましたので、
より具体的に記すことができると思います。国の責任が重くなったと言うことは、トヨタ(私に協調して居れば)を除いた他の存在、
即ち、GLA、幸福の科学、私の親族(故人や準禁治産者に相当する人達です)に当たりが強くなるのです。
一周目では、当局は犯罪に当たらないものを、公安の責任には
できないとの思い違いをしていたのです。それは、当事件が犯罪事件としなければならないような、
必然性を持った問題が無かったからです。しかし司法権侵害は別として、人権侵害は、認めなくてはならなくなったものと思います。
誰が犯罪にしてしまったか?という問題に変化したとも言えます。その件に関して、別の水源、即ち、
トヨタのドブ掃除の意向から合流した、要因、現象も、解決をむつかしくした結果に含まれるとしても、
私には関係ないことです。
ス
何周しても個人的な問題の因果の帰結は、変らないと思われるし
途中で別の水源から別の要因が入っても、それは、私の問題とは基本的に別個のものなのです。公安の介入が生じてからGLA、
幸福の科学が調和したとしても、そちらも別個の問題なのです。今更彼等に合流する意思はありません。双方が調和して解決できても、
できなくても、そちらはそちらで行っていただけば良いのです。いずれにしても最後まで、
解決を阻害している者が火達磨になるものと思います。
しかし、矛盾を抱えたものを生かすなどと言うことは、常識として
不可能とは思います。私に関係がなくなれば、私がトヤカク云うことでもないのです。又、関係がある以上、
私はこれまで通りの主張を続けることになります。公安の責任も問わなくてはならなくなるものと思います。本物が、
何故メディアから排除されるのか?と云う疑問も生じます。(本物でなければ正当な行為)そちらの方が国民にとっては、
重要であり先だとも言えます。私も国民の一人でもあります。
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