愛は真実そのものであり、愛の想いから出た行為は如何なる障害も
透り越してその想いは相手に到達するものである、とする教え自体は間違ってはおりません。問題はそれを教説として取り入れ行う
人間にあると思います。例えば、愛を他に施すことは教えだから行うのでは、真実の愛とは言えないのです。
勿論教えは行ってこそ意味があるものですから、行った方が良いのですが、真実のものでなければ、
結果に好ましくないものが生じる場合があります。問題はおかしいと思っても論理的に反論が非常にむつかしく、
それのことが「愛であれば何を行っても良い」ことを正当化させる根拠でもあるのです。要するに愛の概念を利用しているのです。
愛のフンドシで相撲を取っているのです。
反論は結果に付いてしかできないのです。私は行為としては
幸福の科学に入る以前からそのようにしておりました。適当な用語が見出せなかっただけで、概念自体は対GLAの武器として、
幸福の科学で教わったわけではありません。み(結果が出る前は受け入れ、結果についてのみ反論した。
結果から神ではない証拠を掴めなかっただけです。全ては自分自身の魂の向上の糧であるなどに、反論ができますか?
神が責任を取るならそうなります。他のことについてはそのように行っておりました。調査していただけば判ります。
当時のGLA本部事務局長であった、関芳郎氏が良く知っていると思います。
そこで教えそのままに受け取れば、自分は愛の想いで行ったのであり
その根拠として、結果に好からぬものが生じたのは相手であり、自分には何ら不都合らしき不都合は生じないのだから、
責任を取る必要もなければ、間違ってもいない。教説が正しいことが証明されただけではないか、とする論拠も出てくると思います。
この論拠をくつがえすことは、非常にむつかしく私も手を焼きました。と言ってもだれそれから、
その論拠を突きつけられた分けではありません。実際に相手に「けしからん」と抗議をすれば、お返しにそのような論拠を
突きつけられる可能性が有ったと云うことでご理解いただきたいと思います。
|