国にウラで人殺しのできる筋が全く存在してはいけないとも言い
切れないのです。罪のない者を殺せる筋は道理としては、有り得ませんが、現実的に捉えれば、死刑に価する罪のある者、
もしくは、それに準ずる者の罪を処罰できないことになると、逆に大変な事態が生じるのです。例えば、
人殺しの罪を政府高官に嵌めて罪を犯させ、証拠の提出が出来ないようにするなどして、法律的に、
事件を解決できなくしてしまった者や、スパイ戦争にからんで、裏切りその他の要因から、国家が護れなくなった者は、
放置して見殺しにしなくてはならない場合があるかも知れません。又、積極的に殺さなくてはならない場合もあるかも知れません
さらには、カルト宗教が霊的因果を持ち出して、地獄に落ちる
罰が当たる、などの脅迫から発展した事件にしても、法律的に、正当な追求ができなくなる場合があるかも知れません。
霊的因果では、法律的には無罪になります。極端な見本ではあるが、誰が見ても刑罰は免れない罪に当たると思われる者が、
正常な形で裁判ができなくなったのです。如何に部下を処罰しても、教祖が無罪なら、決定的に、
間違った教説を排除することはできないのです。
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A
これ以上罪を犯して、あの世で苦しまないように、殺すと云う教義の代名詞がポアなら、
ポアを(救済してやらくてはいけないなどと置き換えて)指示すれば殺人指示ではないのか? 指示はしなくても、これ以上罪を犯して、
この世は方便の世界でもあるとに(方便オンリーではなく、方便と実相が表裏をなしている世界、もしくは同時進行している世界)
便乗して、部下の方から、だれそれをポアしたいと云う、請願を出させることもできるのです。
(精舎を建築したいと云う請願を出させるものもあります)そして賞罰は別件で行えば、全ては、部下の意志によるものとする
ことができるのです。
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B
上記のような場合、死刑に値する条件が揃えば、国はウラで処刑(ウラで
刑罰を行う場合懲役何年と云うものはあり得ないから、殺すことになる)してもよいのであれば、
国に人殺しのできる筋が生じたと云えます。通常個人の場合は、そのような筋が生じた人を護らなければ、護らなくても良いのです。
勿論自らを犠牲にして守っても良いですが、義務はありません。宗教組織でも同じことが言えます。宗教などに義務など存在しないのです。
義務は宗教以前の人間として存在するだけなのです。宗教では守れなくなったら、守らなければ良いのです。
元々宗教理念に、他人を守ると云った義務は存在しないのです。有るとすれば愛の中に含まれるものです。
道徳の中には義務が存在しますが、道徳の義務を逆手に取って
自己の野望に属する事柄を満たそうとすることも可能になるのです。宗教には義務はないと思います。
有るとすると自爆テロのように発展します。宗教関連の自発的な自爆テロを義務とすれば管理責任は生じます。
政治家は守ると約束しても、後から罪の判明した者(真実罪が有るか、無いかは別問題)を守る義務はないけれども、
守れなくてもライバルに揚げ足を取られる可能性もあります。もの事には何処に落とし穴があるか分からないのです。だから、
言葉の遊戯、弁証法の論理では真理の追究はできません。心の主となし得るものが有るとすれば、神か真理しかないのです。
しかし心の主としなくてはいけない義務ではないと思います。
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