具体的事実を認識させないままの教えなど、解釈が反対になったり
全知全能の解釈も中身については人それぞれです。例えば直接的なものに限るのか?(自分が直接行えるものに限るのか?)
間接的なことも含めてか?(例えば、行政や経済界やその他の第三者を動かすことによって、目的を達成することも含めるのか?)
その中身は全く異なってくるのです。受け取る人によって解釈が全然違ってくるのです。
これは自分自身の心の中の問題ではないのですから、その人の解釈は自由であり、結果について責任さえ果たせばよいと云う、
問題ではありません。聞く人が間違って解釈しないように、どうゆうことに関して全知全能、明示して会員や一般には知らせなくては
いけません。本当は、こうゆう意味だけれども、あの人は、概念を間違えて受け取ったなどと云った弁明は、
通用しないものと思います。
特定の人の思い込みなども、勝手に真実なものとして誤認識すれば
他人にも影響を及ぼすのです。それを承知で教説するのは、間接的な洗脳と云えます。全知全能については、直接的な概念なら、
その真偽は実証を待つしかないと思いますが、間接的なものは、他人の実績や能力も自らの意志又は霊的な力によって、創られたものとする捉え方が成立するのです。
例えば頭越に行われたことも、源は、自らの力に発すものとすることもできるのです。絶対者ならばそのように主張することも可能になるのです。
又、具体的な例示に関して、これこれは直接的に実証できるが、これこれは、間接的なものに属するなどのせつめいは、
通常人には理解に苦しみものとなるでしょう。
間接的に、他に影響を及ぼす能力を完全否定することは、政治の世界
などで圧力をかけて、特定の個人、団体を動かし目的を達成するなどの例がありますので、検討の余地はありますが、
霊的には、霊の存在そのものを否定する考え方になりかねません。神の存在も否定することにもなりかねません。
(神の導きにより目的の達成ができたとする概念)否定すれば無神論者に転向しなくてはならなくなるかも知れません。
この世的にも完全否定はできないものと思います。私は完全否定する者ではありません。が、前もって肯定したり、
(結果に付いて神のおかげである、とするのは良いが、前もってこうするのは神のご意向であるとする考え方)
根拠を持たないものを肯定したり、当然、必然とすることも、神の力によるものとする考え方は、
(当然、必然の中には悪いものあります)絶対者を創造する考え方であると言いたいのです。
|