私を何らかの危険から守ったとして、一言お礼を言わなくては
いけないのなら、一時的には、トヨタをはじめ蚊帳の外の人は、中野冨敏、谷口健彦を除けば、人権侵害に連座する
全ての人が、何らかから私を護ってきたとも言えるのです。全てにお礼を言わなくてはならなくなるのです。
おかしいではないか? 極端な言い方をすれば、犯人全てにお礼を言わなくてはならなくなるのです。
逆説的に表現すれば、お礼を言われたいための行為になるのではないのか? 但し、高橋佳子については個人間のことに付いては、
功罪いずれも ?マークです。
認定決定権も含めて、生まれ替りが変ったと云うことは、該当する
当人が言ったものでない限り、認定権が存在すると云うことなのです。その言葉を信じた人は、認定権を認めたことなのです。
いずれにしろ、認定する人が居なければ意味がありません。信じるか?信じないか?の問題なのです。
霊的説明は私の見解も含めて、全てそうなのです。受け入れるか? 受け入れないか? 説明や因果はどう受け取るか?
の問題なのです。人や時、場合によって解釈の仕方は、どのようにもできるのです。
霊など存在しないと主張する人も多数居ることなのです。
重ねて言わせてもらいますが、私の宗教理念、(考え方捉え方)
概念に関するものは、如何なる宗教組織でも、個人でも生かしていただいて結構です。但し当方の出費を伴うものはお断りいたします。
この事件の本当の原因は、私もそうでしたが、それぞれが、神が怖かったのであり、解決しない要因も神が怖いのであります。
神(詳しくは神を名乗る者⇔悪霊も同じ)様に勝たなくては解決しないのです。神が「殺せ!」と言われれば、殺しても良いのか?司法判断も神の手にあるならば、
死に値する者を慈悲でもって殺さないなら、今までのことは、慈悲を施すための布石行為だったのか? との疑問が生じます。
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