当Webページに記す事件の原因は、あくまで谷口健彦、中野富敏に
あるのであり、これは事実なのです。高橋佳子が2人を如何に庇おうとも、間違いの事実を庇うなどと言うことは、
有ってはならないのです。高橋佳子は自分の想いについても検証(反省)しなくては、いけないのです。
反省の尺度とするものが間違っているので、自分で反省できたとしても、客観的には反省にはなっていないのです。
高橋佳子が「ヤッテ良いことと悪いことがある」と戒めた言葉は、本当は中野富敏の行為を指した言葉であって、
私が勝手に言った、生まれ変わりについて戒めた言葉ではなかったのではないのか?
この辺も調査していただく必要があります。
そうでなくては、時間的につじつまが合わないのではないのか?
高橋佳子とのアツレキが生じたのは、当然のことながら、私が幸福の科学に転進してからなのです。
それ以前もそれ以後も、お構いなしではなかったのか? と云うことは生まれ替りの言葉の当否言動が幸福の科学に
転進したことによって変ったことになるのです。当時の月刊誌の内容から推して、解決がむつかしくなった気配は、
感じられましたが、こちらの気配も、相手も感じていただろうから、そ知らぬ振りをして、闇討ちにするつもりだったかも知れません。
如何に弁解しようとも、事実はそのように進行したのです。
私が、幸福の科学に転向してから、又は、転向することによって
そのように進行したとしても、基本的にはGLAと幸福の科学の問題で、私は関係ないのです。
勿論、私も他人事ではないのだから、問題にしなくてはならなくなったのですが、高橋佳子に付いては、
個人的問題として捉えるものではないのです。あくまでも、思想、教義に関するものなのです。
私から個人的な関係を持ち出す必要は無いのです。個人的な問題は、中野富敏、谷口健彦にあるのです。
上記「ヤッテ良いことと悪いことがある」との戒めの言葉は、中野富敏のけしからぬ文書が、当方に送られた直後に、
発したものではないのか?中野富敏を戒めたのなら、一貫した姿勢を貫かなくてはいけなかったのではないのか?
GLAを退会してから後、正等防衛の為に私が、自分で指摘したもの、即ち生まれ替りに関して、前言を取り消した理由は、
GLAよりも、むしろ幸福の科学を対象としたものなのですが、(幸福の科学は誰それは、誰それの生まれ替りであると認定していた
のでGLA当時に自分で言ったものは、責任の取らせようがないので取り消す必要があったのです)
高橋佳子のそれ以後の論理は、両人を庇うために、捻り出した屁理屈ではないのか?人間は庇うことができても事実は庇えないのですぞ!
愛とは何なのだ!反社会的な事態を庇って、とんでもない事件を創り出した原因は愛によるものなのか?
反省できないと云うなら、国民が検証しなくてはならない問題なのです。
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