陰徳(隠された愛叉は恩)について、GLA谷口(東大卒)の言いそうな
ことですが、「陰徳を明かされた場合、感謝しなければ対象人物に不幸が起きる」と云うものは隠徳とは言えないのです。
理由は何のために隠していたのか?が問われるからです。そのような陰徳が成立すれば、陥入れるために陰徳を積むことも
可能になるのです。神の目はそのようなものに、ごまかされることはないのです。したがって、仮に霊的な因果が働くとしても、
陰徳に対して感謝しなくも、不運に見舞われて死ぬなどということもあり得ないのです。幸福を願って明らかにしてもらった場合は、
感謝しなくてはいけませんが、真に幸福を願ったものか?邪な気持ちの入ったものか?は神しか判断できないのです。
いずれにしても感謝する、しないは、当人のじゅうなのです。
対象人物が、感謝しなければ不幸が起きると云うことは、邪なもの即ち
利害が入っていると云う証ですのです。だから陰徳、即ち隠された愛とは云えないのです。ですから霊的な因果が有ったとして、
感謝しなくてもも矛盾はしないのです。仮に真心からのものであっても、感謝しなくても、受け入れなくても、
(受け入れなければいけないのでは、強要になり愛とは言えない)そのことが原因で心を入れカ替える人はあっても、
不幸など起きはしないのです。恩義の貸借とは違うのです。愛とは貸借とは無縁のものなのです。
真心にたいして不適切な対応をしても、恥をかくのが関の山と云うだけです。
インフォチャンプ
結論として、相手に反作用が生じるような陰徳は行ってはいけない
のではなくできないのです。概念自体に矛盾が生じるのです。それは陰徳ではないのだから反作用も起きないのです。
仮に、心を入れ替えさせる目的であっても、行ってはいけないのではなく、できないのです。それは意味がないのです。
対象人物が反省もしないで心を入れ替えなくても、入れ替えなかったと云うことは、陰徳を積んだ人の責任なのです。
だから対象人物が心を入れ替えなくても、何もは起きはしないのです。たまたま結果的にそのようになっことと、
目的を持って行うことは違うのです。勿論目的を持って行ってもよいのですが、目的を外れても相手の
責任にはならないと云うことです。
相手に無断で行ったことは、理由や結果の如何を問わず行った人の
責任なのです。心を入れ替えさせる必要のある人には、言葉でアドバイスすればよいのです。そんなこと東大出が解からないのか?
ここのような者が、親鸞聖人の生まれ変わりか? まやかしの陰徳(隠された愛、愛そのものは、人に見せることを目的としないから、
隠されたまでもよいのです。宗教の基本は自分を対象とするものですから、相手が愛に気付かなくても自分の光になるのです。
利害損得があるなら別の問題です。ハッキリと相手に知らせなくてはいけません。間違った愛が大手を振って
通用するようになれば、世は終わりなのです。
注:愛は否定しようにも否定意できないものなのです。そしてその概念を
扱うもの(管理するもの)は宗教なのです。道徳では管理できないのです。ですから間違った宗教は排除しなくてはいけません。
間違っているか?いないか?は。全人類が決めることです。全人類が間違った選択をすれば人類の存続は、
未開民族のような形でしかできなくなります。要するに、生贄などが公然と行われる古代宗教のようになると考えなくては
いけません。
|