私の養育環境に於いては、伯父夫婦の言葉や建前(入籍されていない)
のみの養父母になど、なっていただかなくても、私には何の不都合にもならなかったのです。
私は中学3年生の夏休みまでは、祖父母と寝室も共にして、家業の手伝いも祖父母に従って暮らしていたのです。
勿論、家業に関しては義理の伯母である自称養母やその長男(山口 實)も共同して行っておりました。
しかし伯父は、私が6歳当時に大きな手術を行い、当時の医療技術は、現在とは比較にならない程、低かったため、
体力の回復は後遺症としての残り、肉体労働を必要としない公職につき、そのまま地方政治に踏み込むことになったのです。
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彼は、私の中学生時代になっても、家業に関してはお手伝い程度しか
行ってはいませんでした。私の中学時代では、家業に関する量は、私の方が遥かに多いというような状態でもありました。
水汲み(畑の野菜に書ける水を注ぐものを含め)や牛鶏の世話など、毎日のことですので当然そのようになります。
彼は日が暮れてから帰宅するのでした。給料に関しても、公務員とはいえ山間の役場では半ば奉仕のようなものでしたので、
僅かなものでは、政治などに拘われば、家計の足しにはできなかったと思われます。
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ラブアゲイン
祖父は、私が中学3年生の夏休み頃から、体調を悪くして地元の
医者に診断してもらった結果、名古屋大学付属病院に通院することを勧められ、愛知県岡崎市で、教員生活3年の後、
当時の愛知学芸大学に編入学して、愛知県岡崎市で下宿生活を行っていた、最年少の叔父(山口辰男)の下宿に同宿して、
名大病院に通院していましたが、何時の頃から確かな記憶はありませんが、名大病院に入院することになり、中学の卒業当日に、
喉頭ガンでこの世を去りました。
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私の年代は平均して、一組の夫婦に4〜5人の子供がありました。
又叔父、甥の年齢が接近している家庭は通常のことであり、あちこちに見られる現象でした。中には叔父、甥の年齢差が逆転して、
叔父さんの方が甥より年下という場合もありました。私の場合は一番年下の叔父とは、8年の差が有りましたが、それでも彼は、
意識の段階でも行為の段階でも、私は弟扱いでした。實君(自称養父母の長男で私より一年年下⇒実質的には甥とも云える)
とは意識的に差別することは致しませんでしたが、意識の垣根のあり方で異なっていました。
幼少時の関係とは別に、私の方が誠君よりもも、知能の差も
接近していた為かも知れません。叔父にとり自分の親である祖父母が、自分も未だ意識的に親から独立していない、
子供時代に私を育てていれば、意識的には弟になるのは当然です。長年下宿や居候で一緒に暮らしましたが、
彼は説明の必要のない知人には、私のことを弟と云ってた様子です。ですから社会通念上では伯父に、
言葉や建前だけの養父になっていただかなくても、何ら不都合は双方共に起きなかったのです。
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ラブアゲイン
何故そのようなことに頑強にこだわるのか? 私は心理学の知識を
持たない時期は理解できませんでした。心理学知識が身に付いてからは(20代半ば)理解そのものはできましたが、
それは驚愕に値する矛盾に満ちたものでした。矛盾そのものは、何となくおかしい、などから、ここがおかしいと言うように、
年齢を重ねるごとに、具体的に解かるようになってはいました。以上に付いては、私の基本的な能力が、
自称養父母がそ相続した、祖父母の遺産など必要としない人間でなくては、法律的な不備があり、
彼らを非難することはできないかも知れません。
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そのことに関しては、トヨタの両元首脳の見解も参考にして
頂きたいと思います。私はトヨタには媚っておりませんので、十分参考の価値はあると思います。
要するに伯父夫婦は自分たちが勝手に、私の養父母になっておいて自分たちの本音(深層意識、即ち自覚していない妬みや面子、
自尊心、が含む)と建前の食い違いから生じる矛盾を、私に転嫁していたのです。自作自演を行い、
矛盾は私に押し付けていたと云うものが真相なのです。
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注1:養父母も、呼び名に不都合が生じるなどの理由による、単なる便宜上のものなら、方便として通用しますが、
方便は方便としなくてはいけません。一般的には、方便と実際を使い分けるなどとんでもないことです。が、
このページに記す例は、使い分けたのではなく、区別が付かないのです。
注2:一連の記事に関しては、社会的に名声を博した人であろうとも、敬意を表したり、持ち上げるなどの表現は、
一切抜きにさせていただいております。さもないと、当方の記事の意図や内容が歪められて解釈される恐れがあるからです。
事件が解決するまでは、その姿勢は崩しませんので、ご理解下さい。
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