良心の呵責と地獄の関係について




死後の世界の地獄とされるものは、一口で言えば良心との格闘を
意味していると私は思うのです。心のどの段階で良心の呵責を受けるか?なのです。浅いところの方がよのです。 良心の呵責を表面意識で受け易い人は、地獄に行くにしても浅いところでしょう。そのような人は、天国行きの要素も有るだろうから、 見聞程度で済むことでしょう。天国行きの要素が無ければ、半永久的に浅い地獄を徘徊することになるでしょう。 人間の意識の中で一番浅いところは表面意識なのです。(顕在意識とも言う)このような人に忠告するなら、 良心と格闘することのないように、頑張っていただきたいと云うことです。

4アイ・デパート

良心との格闘とは、自分が全く悪いことをしていなければ、
呵責は受けることはありませんが、悪いことを行わない人でも、悪いことをすれば、良心の呵責を受けることを、 無意識の内に知っているから、悪いこととは言わないまでも、自我の赴くままの行為ができず、思い悩むと云うものも、 良心との格闘なのです。一般的にナイーブと言われるタイプの人です。しかし、そうでない人もいます。いわゆる仏様のような人です。 そういう人は死後天国直行でしょう。天国直行も低いところと高いところがあるでしょう。順を追って上がる人もいるでしょう、 それも千差万別でしょう。

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その他に芳しくないものとして、自分で、悪いことを行ったことに
気付かなくて、勘違いや思い込みから、自分は、悪いことを行ってはいないと、表面意識で思っているだけの人もいることでしょう。 俗に云う恥を恥と思わない人も、表面意識では、良心の呵責は受けていないでしょう。しかし、良いことにしろ悪いことにしろ、 行ったことは、全て潜在意識や深層意識に記憶されているのです。これは、あの世の話しではなく心理学で証明されているのです。 深層意識や潜在意識に記憶されているもの殆どは、忘れていて表面意識で自覚することはできませんが、 その原因の多くは不要なものだからです。その他の原因として、自分に不都合なものも忘れ易くなります。

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不都合と云っても事柄は忘れにくいものです。不都合の中の多くのものは
良心の呵責に関する件でしょう。しかし、死後の生が存在するならば、そして、魂と云うものが、 霊的に説明されているようなものであれば、この世で培った正当化や思い込みがされることになり、 深層意識そのものが表面に露に出てきて、嫌でも自らの本性を自覚しなくてはならなくなり、良心との格闘が起きるのです。 しかし良心との格闘、即ち言い訳などで勝ったとしても、償なわなければ絶対に解消できないのです。以上までは、 論理的に理解可能なものであると思います。

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この世ならば、良心(神)との格闘末、解決の道も見つからず思い
悩んだり、他人から蔑まれたり、罵倒されるなどの生き地獄を味わう訳ですが、あの世では言われているような、 針の山や血の池で暮らすことになるのか?どうか?は知りません。行って見なくては解からないことですが、 少なくてもこの世において、良心の呵責を受け易い人は、素直に良心に従えさえすれば、地獄に行くことはないものと思います。 しかし、以上の論理をカルト宗教が、己の利得のために「神の意志に背くと地獄に行く」などと悪用すると云うものであれば、 許しがたい行為と言わざるをえません。

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注1:悪を悪と自覚して行っている者、即ち悪党は良心の呵責などは
受けることはないと思われるかも知れませんが、それは正当化や言い訳で防御しているのです。鎧、兜で防御しているとも言えます。 叉、良心の働きが鈍いとも言えますが、心の深い部分から鎧、兜で防御しているとも解釈できます。
注2:上記に関しては、私が良心の呵責の意味の探求や心理学の知識から類推した、地獄観を述べたものに過ぎませんから、 事実か?どうか?に付いては責任を持ちかねます。そもそも私は、あの世の存在に付いて、多分あるだろうと思っていますが、 あるとは断定していないのです。しかし、反対にあの世は無いと思っていて、死んで見たら有ったのでは駄目なのです。
注3:キリスト教もイスラム教もあの世の存在、即ち天国地獄の存在は肯定していますが、生まれ替りは正式には認めていません。 生まれ替りを認めているのは仏教系、インドのヒンドゥー教です。

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