私見るではありますが、宗教は、その時その場をどう生きるか?が
問われるのであって手本の通リに行えば良いと言うものではないのです。条件が悪く手本の通リには行えない人も居るのです。
それを全て本人のせいにするのならば、過去世まで探求しなくてはならない人も出てきます。宗教を行う者は、模範生活を行わなくてはいけないとする教義を、
旗印にしなくてはいけないとするならば、カルト宗教の教えを手助けすようなものです。過去世の因縁を唱えものは、カルト宗教の教義に限ったものではありませんが、
仮にそれが真実だとしても、今生は、過去世の因縁により、スタートラインにハンデーは有っても、走ることに制限を加えられるなら、
この世を生きる意味が違ってきます。そのような教義で、正常な人生を指導できるか?が問題になります。
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極端なことを言えば、宗教の教義は、明日死ぬかも知れない重病人にも
対応できなくてはいけないものなのです。但し、方便として嘘(例えばあの世はないにも拘わらず、有ると教説すること)を言ってもよいのか?どうか?は
私は知らりません。又、暴力団の親分が如何にして抗争事件を無くすか、腐心して生きるなら霊的立場でとらえれば一つの善行とみなせるのです。
外見は変わらなくても想いの次元では、宗教なのであり心の糧となるのです。但し犯罪や道徳に反する行為は、法律や世間から咎められることに変わりはありません。
心の糧は差し引きの問題になるでしょう。暴力団々員が、宗教組織に属することが可能か、否かは、宗教組織の判断によります。同じことを行っていても、
宗教組織に所属していれば宗教であり、所属していなければ、宗教ではないと云う考え方があれば、おかしなことです。
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要するに自分の抱えた状況にどのように生きるか?が重要なのです。
その観点からすれば、宗教指導者は、自分の向上のみではなく、他人にも指導を行う使命を持つのですから、必然的に、相互関係やそれに伴なう
道徳にも立ち入らなくてはならなくなるのです。そのような事情から道徳を含めた善行が、自分以外からの好条件を招き、そのことが自分の向上に
役立つことになり、その輪廻が大衆を救済することになる、とする思想に(愛による光の輪を広げる)発展したものが、大乗仏教と言われるものだと思います。
しかし、宗教はあくまで小乗が(自分の向上)先で、小乗を基にした、大乗でなくてはいけないと思います。大乗優先思想は、自己の向上は後回しであるから、
単なる奉仕になります。奉仕をすれば、自己の向上になると云う教義や風評に評判に基づいたものが動機が行為となるのです。
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大乗優先の教義を基にした組織では、個人的には結果として自己の
向上になった人がいても、自己の向上を果たさなかった人がいれば、組織としては看板と矛盾と矛盾することになります。しかし、小乗を基におけば、
自己の向上は自己責任ですので、看板と矛盾することはありません。勿論大乗一辺倒でも無償の指導であれば、実際の結果如何にかかわらず異なった見解になります。
小乗は自己の向上が果たせなかったら、その人の責任です。大乗が優先で小乗は結果として得られるとする考え方は、宗教の教えとしては邪道だと思います。
但し、道徳指導ならば、自己の向上が目的ではなく、目的は相互扶助ではありますので問題はありません。道徳的な膳は他人のために行うことを
目的としているのだから、仮に結果として自己の向上に繋がらなくても、目的さえ果たしていれば看板に偽りはないのです。
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道徳的善行は、説得によって嫌々行おうと自分のためにならなくても
相互扶助の精神を習慣として身につければ、看板には偽りはないのです。相手にさえ喜んでもらえばそれでよいのてす。宗教の場合は、特に小乗の場合は、
同じ善悪でも、道徳とは異なり、自分の想いの中身がどのようなものか?を知るり、想いの悪を捨て善を採ることによって、自己の向上を目指すことを
本題としているのです。ですから、儀務感で嫌々善を行っても宗教を行っているとは言えないのです。但し、人間の大多数に当てはまることですが、
嫌々ながらでも道徳は守らなくてはいけないのです。守る義務があるのです。自己の向上の義務は神の前にはあっても、この世的義務がないのです。
全ての道徳に関する事柄を、想いの中で喜びを持って行動できてり守ることのできる人が、即ち悟っている人となのです。
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イエス・キリストや釈迦級の魂の持ち主なのです。殆ど居ないと見て
差支えないのです。参考ながら、道徳を習慣として捉えている人は多いのです。(それで良いのです)道徳は全体に対して、又は個人間の暗黙の(条文なき)
約束ごとなのです。義務感からでも他人や社会に役立つことを行えば、心は明るくなり、周囲から好感をもたれるようになりますので、
結果的に自己の向上にはつながりますが、やはり小乗的な抑えがないと、増上慢になったり、背伸びをするなどの落とし穴に陥る可能性は付きまといます。
落とし穴に落ちたら元のもくあみになるのです。場合よっては以前よりも却っていけなくなることもあるのです。反対に道徳を看板にしている組織であっても、
自己の向上をも兼ね備えているものは、大乗宗教の要素を内包してるのです。名称はどうあろうと中身は宗教なのです。
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小乗と大乗の位置が反対になっている場合は正式に宗教とすると
不都合がが生じる可能性はあります。道徳は助け合いや信義を守るなどの約束事を果たすことが目的ですから、嫌々は極端にしても、他人に迷惑が掛からない以上、
咎めることはできません。義務感をもって行ってもよいのです。勿論、宗教組織に属していても、嫌々行ってもよいのですが、それでは宗教と言えないだけなのです。
又、自分は宗教を行っていると広言してもよいのです。魂が腐り波動が悪くなるだけです。罰が当たると云うものに相当するかも知れないだけです。
現在は、道徳と宗教の違いさえ解らない人が多数居ますので、道徳を指導するなら、最初に道徳とはどうゆうものか?キチント
理解させてから行っていただきたいと思います。 2007年03月24日⇔再編集
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