★この世に人間として生を得れば、悪徳、魔的な想いは誰でも
湧くものと思うのですが、湧かない人も全く居ないとも云えないのです。そう云う人は、魂として高級であると云うことができます。
又神により近い魂とも云えますが、人間として生を得れば、知能もそれに相応した高いものを持って生まれてくるとは云えません。
又このことは逆も真なりとも言えるかも知れません。霊的なことは、不明確な部分が多いことを前提として示せば、
山下清画伯のような例もあり、魂として如何に純粋であろうとも、この世的な能力がなくては宗教指導者にはなれません。
即ち霊的には格上であっても人間として、さまざまな能力を所有しなくては
この世に於いては宗教指導者は勿論、その他の事柄に関しても、霊格に比例した立場で人々指導できる立場に付けるとは限りません。
だからと云って、天性の人とは異なった性質を持った人達を宗教的な戒律などで外部から、無理に邪念が湧かないように押さえ込んで
人為的に天性の人と同じ人を、創り出そうとすることは却ってマインドコントローの原因になり、己心の魔が見えなくなり、
危険なものとなります。己心の魔はマインドコントロール源とも言うべきものなのです。己心の魔に支配されてしまった人は、
己心の魔が見敗れなくなるのです
イ
己心の魔は見破られたら、大したことは出来ないのです。ここで見破るとは
外部の人から見破られることを意味するものではありません。自分自身が自覚すること意味します。己心の魔は脱走、
暴走しないように気を付けていれば良いのです。己心の魔に従ってはいけません。従うとうと地獄行きのキップを
入手したことになります。己心の魔は飼っておけば良いのです。己を知らずして人を知ることもできません。
以上は私の見解であり、別の考え方も有るかも知れません。いずれにしても、悪を自覚的にコントロール出来ない人は、
基本的には公安の問題であり、宗教の問題ではありません。
天性により、邪悪な想いが湧かないような人なら初めから問題など
起こしははしないのです。参考ながら、ボランティア活動は活動そのものが善であるので、不純物は自覚するだけで良いのです。
活動そのものが善であるある場合と通常の活動、即ち善悪を選択しなくてはいけない場合を混同してはいけません。
叉、特定宗教団体への奉仕はボランティア活動ではありません。人から有用な事柄を教えてもらうとは、霊的に借りであると思います。
しかし知識には順送り、相互扶助の要素もあるから、内容、状況、場合<、その他の条件もあるだろうが、
一般的には取り立てて感謝しなくても、自分が後輩<などに教示すれば貸借は清算されると考えるのが妥当でしょう。
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