この世的(存在)の事実を、霊の論理を持ち出して否定したり、変更する
ことはできなのです。何故なら、霊的な論理に根拠を置いて物事に対処すると、現実の問題に関して間違いが生じやすく、
叉、霊的存在にも悪いものがあるからです。いわゆる悪霊、悪魔です。このような類は、一目でオレは悪魔だなどと分かる
形はとらないのです。高橋佳子が教説として述べた、ヤッテ悪いことは、小田島氏名義で、私に宛てて出された、
(一般会員を含めたGLAの関係者が、トヨタを経由して私の職場の関係者と、接触した事実は全く存在しないとする)
通告文書のことか?
それとも、私が、弘法大師の生まれ替わりと云ったことのか?
公安関係者にハッキリ明示しなくてはいけないのです。ヤッテよいことと悪いことがあると云っても、
お地蔵様に小便をかける(禁止行為を明文化する必要は無い)のとは意味が違います。ヤッテ悪いことがあるなら、
ハッキリ明示しておかなくてはいけないのですが、それさえ出来ないのでは、口には出さねど無言の圧力を掛けて、
良識に関わる問題を因果を法律と同一視して、見勝手な因果で咎めることは、道徳的に捉えても関しても無理がきます。
いけないものはハッキリ文言で明示した方がよいのです。
ナ
又、間違いを生かすと云っても、自分の間違いを自分で生かす
と云うことか?他人の間違いをも含めて生かすと云うものか?ハッキリしない上に、そのまま生かすのか?
教訓として生かすのか? をもハッキリさせていなかったのです。従って教えの間違いか?解釈の間違いか?
さらには間違っていないのか?間違っているのか?さえ判別できない教説ではなかったか? と問わざるを得ません。
霊的存在を、この世的に否定してはいけないとする主張、教説とは意味が違うのです。
ヌ
あの世は仮に、想念の世界とすれば、教えた人、教えを解釈した人
いずれにしても、間違えた人は、想念の食い違いがしょうじますので、自己責任責任として、結果が自分に還ってくる可能性が、
高いものと想像できますが、そうであれば、正当な現象とされ、いさかいは生じないものと考えられます。
この世では言葉が介在しますので、言い訳や相手の非難などが生じ、必ずしもそのようになるとは限りません。
間違いの悪影響が他人にまで及ぶのです。
このような曖昧な特定個人の霊的概念で、この世で一般人に
対して宗教思想として教導し、教義を道徳的な概念と同列視して、言行の正当性の尺度や基準として、人々の賞罰ができると
皆さん思いますか?以上については考えていただきたいと思います。GLAは教義を捨てて解散しなくてはいけないのです。
彼らが自発的にできることはそれだけです。次のことは国家の仕事と云うこととなります。以上に付いては、
私の云うべきこどではないとは思いますが、一般論としてはそうなりますと云う意味です。
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