テレパシーについては、アメリカでは研究している大学も有るとの
ことですが、宗教などの場合は、受ける方が目上の人の場合が多いので勝手なマネはできません。試しに行うなどと云うことは本来
できないのです。宗教に関係しなくても、霊的なことは試しに行うと云うことは、良くない結果を招きかねません。
仮に霊能力を所有出来ても、日常雑事の実用に使用すると云うことも、遠い将来は別として、現在ただ今では出来ないと思います。
又試しとか、実用に使う研究などの名目で、安易な気持ちで行っても出来ないばかりか、火遊びの領域に踏み込むことになると
大変危険なものとなります。
どのように危険かは予想ができないこと、それ自体が危険と云えます
勿論私が危険の内容を体験している分けではありませんが、書物などででも、そのように書かれたものがあり、
理由などもある程度の推測はでますが、根拠として公開できるほどのものではありません。先にも記したように発する方は、
想えば良い訳ですが、意図的なものは、さらに想いの中に、さまざまな不純物、即ち打算、好奇心などの想いが混入されています。
要するに自然に生じた素直な想いではないのです。通常の生活では悪とは云えないものでもテレパシーの波動としては、
同じで邪魔になるのです。雑音がはいれば誤解を受けかねないことは容易に想像できます。
ヒ
その他、推測として、霊的存在を広める目的を持たないものや
愛や善から外れた、目的意識の違うものが混じっている場合、即ち、神の御心から外れた目的意識で行われても、
シャットアウトされるものと考えられます。どのようにシャットアウトかは私の知るところではありません。
通常人がテレパシー現象を知るには、一種の感と云われる能力が必要なことと、それに加えてフト偶然に強く想った
などの偶然という要素に頼らざるを得ないと思います。勿論確認は感などによるものでなく、受け取った相手の人から
言葉できる場合もあります。何分にも、証拠と云うものを持ち出すことができない現象ですので、
詰問の態度はいけません。
人間は生まれた時は知識として何も持って来ることはできないのです
成長する中で、必ず先人、先達の知識や知恵を吸収して自分の知識としているのです。体験にしても知識を基にして組み立て、
自分の知識とするのですから、自分がある知識を所有したと言うことは、先人、先達の知識や知恵を貰ったとも云えます。
しかし知識や知恵を与えた人も又、先人、先達から知識や知恵を貰って、自分の知識や知恵としたのですから、
その順送りの現象から生じた、いわば宝は神から貰ったとも云えます。しかし人間として生を得た神の代理人が、
その権益を主張するのは無理があると思います。例えば既に与えられていることに感謝しなさいなどなど。
感謝することは結構ですが、認知できる形で感謝する必要はないのです。
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