盗人に追い銭の思想とは、小説ジャンバルジャンの物語の一節に
ジャンバルジャンが、教会の銀の燭台を盗んだところを司祭に見つかり、司祭が「それは貴方のものですから持って行きなさい」と
ジャンバルジャンを諭して、改心させたことの意味をなぞらえたものですが、内容は物語の本質である、
相手に感銘を与えると云う内容が手段にすり替えられたものです。物語では、司祭は自分の責任に属する教会の燭台を
持って行きなさいと言ったのであって、他人の持ち物について「それはあなたのものだから持って行きなさい」と云って
諭したのではありません。
しかるに谷口健彦はこの一節に心酔傾倒して、他人に対してその様な
思想をもって、接しなさいと教説するまでは良いとしても、さらに進展して現実に類似事態が、(実際には物品を盗られたと
云うものではなく、業務などを怠り他人に迷惑を及ぼした。などと云った類のもの)生じた場合に迷惑などの被害に会った人を
代弁して、被害者は寛容な気持ちを持たなくてはいけない。寛容な気持ちで接することにより、加害者は自分の過ちを後悔して
改心する。との思想スリ替え、加害者には何ら責任を求めるたり、罰することのないようにと、会社などの統括責任者に
直接指示していた形跡もあるのです。
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さらに上記のスリ替え思想を発展させ、トラブルなどの問題が
生じた場合、問題の有る方に罰の代わりに、賞という名の地位と責任を与えて、当人に、名誉と責任の重さに意気を感じさせ
責任を全とうさせようと云う、彼、独特の人間改良の手段ですが、特に実績など有る分けがありません。そのような手段で、
責任の重さに意気を感じ、手のひらを変えて業務に専念するような人間なら、最初から他人に迷惑などは及ぼしはしないのです。
そのような手段で、人間が改良できると思っているのだから間違いが起きて当然と言えます。
教えを手段として公式化し、それに従って誰にでも、何時でも同じ様に
コトを行えば、同じ結果が得られるものと思っていたのでは間違いが起きて当然です。小説とは特定個人の思想を表現したものであり
該当する小説の場合、作者は読者に対して感銘を与えるコトを述べているのであって、悪人を改心させる方法論を
述べているのではないのです。感銘を与えることのできないような者が、如何に司祭の行為を手段として取り入れ行おうとも
悪人を改心させることなど出来はしないのです。
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