愛を手段として行うことについて、例示すれは、苦手な相手、不都合な
相手には愛を施すことによって、その相手に不都合が起きるなどして、相手は (愛に対する)
対抗手段などが行えなくなり、人間又は事柄が自分の面前から消え去る。だから、そうゆう相手には愛を施せば良いとするものです。
この場合彼が考えていることは、愛ではなく善悪に関することなのです。真実の愛なら結果としてそうなるかも知れませんが、
予め結果を計算して行うものは、どのような結果を想い描いて行ったか?も問題ですが、自分の苦手な相手に対抗するための愛では、
真実の愛ではなく単なる対抗手段に過ぎないのです。
しかし対抗手段であったとしても、(真実の愛でなくても)結果に
良きものを想って、施すものが膳であれば、行っていけないことではないのです。悪しき対抗手段とは云えないのです。
相手が消え去ったり、改心することもあるのです。行っていけないと云うものではないのです。ただ条件が有るのです。
その条件とは、結果については責任を持つことなのです。谷口健彦は、この世のルールの一つである責任と云う、
命綱を手放してしまったので頭がおかしくなったのです。
ス
谷口健彦は、阪本竜馬の生まれ替りでもあるとのことでしたが
阪本竜馬位の時代では、ひ孫くらいの人が生存している可能性があるのです。(竜馬には直系の子孫はいないとのことですが)
このまま事態が進行すると、谷口が刑法に問われ正式に罪人になる可能性もあるのです。行政解決なら正式な罪人とはなりません。
血縁は薄れてはいるとしても、大変不名誉をこうむることにとになると思いますが、
その点谷口はどのように考えているのか?公安は一度確かめてみる必要があると思います。(警察は様々な方面から、
業務の一部を委託される場合があると思う。ですので、警察が行ったから違法と云うものではありません)
尚、一連の記事は私が幸福の科学から、思想の独立性を保つことがで
きたので、なし得たものと思ってあります。その根拠はGLAと幸福の科学は、互いにコップの中の論理ですので、
何時まで経っても決着は付かないと思うからです。コップの中の論理では駄目なのです。
コップの中の論理でも、どちらかが偽者であることを、自ら認めれば決着は付きます。決着は付きますが両方とも偽者であれば、
勝った方が本物とは言えないのです。
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