神に復讐を期待して生きるのか?




イエスキリストの教えとされる「汝、右の頬を打たらば、左の頬も
差し出せ」との言葉をそのままに、そうすることにより、廻りまわって、相手に天罰が下るとの計算の下に元に行うならば、 想いの内容を一歩踏み込んで考えれば、神に報復を願っていることになるのです。イエスキリストは、 例え自分は打たれても、相手を打つことをしないと言う愛を説いたのであって、その行為によって相手に天罰が下るから、 そのようにしなさい。と説いた言葉ではないのです。手段を説いた言葉ではないのです。又は、右の頬を打たれたとして、 左の頬を差し出しせば、その行為によって相手が、右の頬を打ったことを恥て後悔することもあり得るでしょう。

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しかし、それは、結果的にそのような現象が生じたのであって、最初から
相手を後悔させるための手段を説いたものではなないのです。その理由は、運良く相手が自らの行為を後悔してくれれば、 問題はありませんが、そうとは限りません。何回か行う中には必ず思惑から外れる場合が生じるものです。 思惑から外れた場合その結果を、甘んじて受け入れると云うことであれば、キリストの教えに殉じたとも解釈できますが、 GLAの指導者にはそのような、心掛けがけは見当らず、天罰が当たるものと思っているのです。要するに神に報復を期待しながら、 生きることを人々に説諭していることと同じでなのですが、そのことには気付いていなかったのです。

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私が労務管理のノウハウを発案したことに、対抗するとため云う訳では
ないでしょうが特に谷口健彦は、イエスキリストの言葉や宗教理念の中身を手段に改ざんして、GLA会員のみならず 一般人にも手段を愛とすり替えて説諭していた様子が窺えます。それほど手段に関心があったなら、 児童虐待防止策など考えてみたらどうだったか?と言いたくなります。そういうことに腐心している人も居ことでしょうから、 余程そちらの方が神の御心に適っていると思います。宗教的なアドバイスの名目で、自己の所属する宗教組織の会員でもない 一般人に愛と称して、盗人に追い銭の思想を何故、説かなくてはならないかと云いたくなります。

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そのような思想や行為は結局は、結果は神にお任せして、全ては神の御心
によるものとしなくてはならなくなるのです。「盗人には追い銭を与えなさい」と人々に説いた本人は、 何の責任感さえ感じなくなるのです。このような現象が現実に起きると云うことは、イエスキリストの言葉を建前では教えとしながら、 深層意識では手段として取り入れている証でもあるのです。自分では教説としてしか、理解していないからです。 自分が想い込んでいるだけでは駄目なのです。独善的な思い込みはマインドコントロールの種と云うべきです。

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彼に取って教説は、教説であって責任は伴なわないのですから
不都合が生じても、責任に関することは自分にはなく、被害を蒙った人が、教えに忠実でなかったが故の。 の自己責任としか理解できないのです。教説としてイエスの教えを引用することは問題ないのですが、中身を改ざんしたり すり替えたりするのであれば、宗教指導者にあるまじきしせいと云えす。キリストの言葉で、 相撲を取れば良いと云うものではありません。そのようにすり替えられた概念が、宗教理念とされるなら、 慈愛の名の下に横暴な生き方をする者を咎める手段がなくなるのです。敢えて咎める者は教えに反する者とされるのです。

 

良心的な生き方をしている者は、横暴な生き方をしている者に
何ら異議を唱えることができなくなるのです。まじめに生きる者が損をする社会の仕組みが醸成されるのです。あの世に帰れば、 万事に関して公平な償罰の現象が生じるから、この世に於いては理不尽には、慈悲の心でもって処世すべきであるとの宗教理念では、 宗教心を持って生きる者は、あの世で神に復讐の期待を寄せて、この世を生きていかざるを得なくなります。 社会一般の深層意識の中に、そういう意識が生じることにもなるのです。信仰が抑圧された意識を、神に<開放されることを、 期待することに変質してしまうのです。

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