疑惑、疑念について記せば、当事件に関しては、このような場で記す
ことのできないような、疑念も多々生じるのです。仮に疑念が湧いて、正直にその内容を公表しても法律や道徳、
又は宗教でも咎めることは出来ないものと思います。疑惑とか疑念と云うものは、そのようなものが、
生じる事態の方か咎められるべきものだと思います。幸福の科学西三河支部では、知立市駅前で自殺防止キャンペーンを行っていました。
私もそのキャンペーンに誘われましたが、お断りしました。理由の一つはその当時、
私はその周辺地域でアルバイトのチラシ配布をしていたのです。
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超能力又は予知の意味を理解していない人には、上記については
何のことかお解りではないかも知れませんが、幸福の科学大川総裁と、総裁が所有されているとされる、
超能力を信じるならば、あたかも私がこの事件で追い込まれて、自殺をするはめになることを予知し、
その忠告行為であるかのように受け取れるのです。但し、総裁に予知能力がなければ、自殺防止キャンペーと、
当事件には何の関係もありません。これは私の心の中に生じる、一種の疑念とも言えます。言わせて貰えば、
幸福の科学は私に対して、自殺を忠告できる立場ではないと考えます。
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忠告する必要があるなら、その前に私が、自殺に追い込まれる
ような条件を、積極的に解除しなくてはならない立場にあると思うからです。これは疑念であって、
疑念の湧くものを幸福の科学は、咎めることはできないと考えます。参考として、疑念に良く似た現象に疑心暗鬼というものがあります。
勝手に疑心暗鬼になった内容を、口外した場合法律的に咎められるか、どうか?私は答える能力がありませんので、
司法関係者にお訊きいただくことにしますが、うかつに口外すると民事的に名誉毀損にはなると思います。
私見ではありますが、疑心暗鬼は、自分の良心にやましい部分が有ると陥り易くなると思います。
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そして疑心暗鬼は、前述のようにうかつに口外すると、相手を傷つけたり
新たな争いの種を撒くことにもなりますので、さらに自己防衛の用心が働き、新たな為疑心暗鬼を作り出していくのです。
こうゆう悪循環が生じるようになっては、法律で咎められる前に精神の自己破壊が生じるものと思います。さもなくば、
故意に良心を無視する癖tがつき、良心に反するようなことを誰はばかることなく、正々堂々と行うような精神状態に進行することでしょう。
良心が消えてしまうのです。これも長い目で見れば必ず行き詰まります。私は疑念は生じますが、
これと云った良心にやましいことがはありませんので、精神は至って健全であると思っています。
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但し、精神に異状のある人でも、本人自身は正常であると
思っているケースは少なからず存在するものです。当事件に関して言えば、湧く疑念を口外して、
仮にそれが的外れなものであったとして、誰かが傷ついたとしても、それは私の責任ではないのです。
該当する状況を解消しない当人の責任としなくてはいけないのです。本来疑念を口にしたら、関係のない第三者が傷ついた、
などと云うことが在ってはいけないのです。もし傷つくような第三者がいたなら、その人は自分が傷つけられる前に疑念を抱かれたり、
疑惑を持たれたりする、源となる状況や存在に対して自己防衛の抗議行為をしなくてはいけないのです。
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それをしないで、アイツが口外したからオレが傷ついた、などの
言い草はおかしいのです。当時のトヨタ自動車の副会長であり、愛知県公安委員会委員長の職にあった、
故、磯村巌氏でも疑惑を持たれるようなことをしていてはいけなかったのです。とは言うものの、自己責任ではないにしても
人を傷つけることは、できるだけ避けた方が良いことも事実です。又、反面、疑念、疑惑の温床とも言える存在に対しては、
勇気をもって指摘することも必要かと思います。どちらを選ぶかは、その時その場で、
その人の判断に任せるより仕方がないと思います。
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