道徳の中で宗教が存在すれば本末転倒である

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幸福の科学大川総裁は悪を捨て善を採れと教説していました。
上記は道徳的に大切なことであり、常識でもありますが、万人が常識てきな良識に沿った行為ができないから社会に波風が生じるのです。 何故、できないか?と言えば、道徳的な善悪には大なり小なり正当化の余地があるのです。この世のルールは、 正当化の余地のない悪は、法律で取り締まられることになっているのです。ですから道徳を指導する立場にある、学校の先生や警察官などが 如何に説いても道徳的悪はなくならないのです。あまり強く言えば反感を買うことにもなります。  

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宗教は道徳も含まれているものですから道徳を説いては
いけないと云うことではありません。しかし、過去世の因果を持ち出して道徳を説かなくてはならないでは、宗教指導者としては力不足とも言えます。 何故、過去世の因果を持ち出しても道徳的善案を説かなくてはならなくなるか?について見解を述べることにします。宗教団体と名うっている中に 道徳を犯すような会員がいては、教祖のメンツに拘わるのです。メンツを保つためには賞罰が必要になり、最悪退会の勧告などには明確な基準が 必要となり、道徳的善悪を借用しなくてはならなくなると考えられます。いかにも情けない感じを受けます。  

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道徳的概念を背景としなくては宗教が説けないようでは
道徳の中で宗教が存在しなくてはならなくなり宗教の意義がうしなわれます。本末転倒の感が致します。 勿論、大川総裁自身は宗教的善悪と道徳的善悪をを知っていた上で「悪を捨て善を採れ」と教説したと主張することはできます。 私の見解は独善的な批判とすることもできます。しかし、悪霊のひょう依を「お客様」来ていると表現しているようでは、会員は、悪霊とはどのようなものか 確かな理解は得られないと思います。(道徳を犯すと悪霊にひょう依されると云っているにすぎない)宗教的善悪とはどのような概念を指すのか? 知っていて教説したとしても、中身の説明がなければ会員は、道徳的善悪と同じ概念でとらえるのです。無責任と言わざるを得ません。  

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宗教概念は、理解できない者を無理に理解させる必要はありませんが
自分さえ解って入れはよいというものではありません。以下に私の捉え方による宗教的善悪の「取捨選択の意味」を示しますので参考にしていただければよいか と思います。尚、私は宗教的善悪を間違いなくできれば道徳的善悪は不必要であると主張するものではありません。むしろ必要であるとも言えるのです。 その理由の一つは、宗教的善悪、即ち、想いの在りようの善悪と想の中身の善悪の区別のつかない人もいると考えられるからです。二つ目が如何に思い方が大切だと云っても、 客観的に判断しなくてはならない場合は、言行として表れた現象を基準としなくてはならないからです。(自分自身の反省でも同じ)  
 

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■深層意識一段目(損得打算の想い⇔在ってもよいが、在ることを知っているか?中身を知っているか?⇔人の心を大切にしているか? 他人に迷惑をかけていないか?⇔(善か?悪か?)

■深層意識二段目(目的や動機は何か?を知ること⇔善か?悪か?他人のためか?自分のためか?その他⇔(愛か?貪りか?)

■深層意識三段目(オトボケその他の欺瞞はないか?すり替えはないか?流されてはいないか?増上慢になってはいないか?逃げてはいないか?⇔ (以上は程度の問題である。程度を超していないか?が問われるのです)

■深層意識四段目(自尊心の置きどころは何処か?自己顕示欲に気付いているか?⇔自己顕示欲は抑えると精神的な害になります。克服しなくてはいけません)
■深層意識五段目(自己保存⇔力の行使は正当防衛か?過剰攻撃か?⇔自分のためか?他人のためか?⇔愛か?貪りか?⇔力は武力だけではありません。 種族保存の本能の在り方が、キチンとしているか?)

 
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注:上記例については、一段目から五段目までの想いの
中身を知るだけでは駄目です。知るだけですと魔的になります。善を捨て悪を取れば悪魔にもなります。 その対応の仕方が重要です。又、濃淡は個性や人格を創る要素となるのです。 又、道徳的な善悪も言行となって心の外に現れた現象について問われるもの ですが、当然、言行として現わされる以前に想いの中で、いわば一品の料理として創られているのです。想いの中にある一品の料理を善悪の尺度で測ることは 道徳に類別されることとも言えます。上記に示す宗教的善悪とは一品の料理を創る前の想い方と御理解いただきたいと思います。   

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即ち、何を目的として一品の料理を創るか?何故つくるのか? (その想い善か?悪か?)なのです。以上に対して想いの次元で善しか想ってはいけないなら生きて行けなくなる。と云った感想もありましょうが、 心の中の規制は、自分以外の誰からもできないのです。だから、生きて行けなくなったら生きて行けるようにヤラなくてはいけないのです。 何人も他人が生きて行けなくなるようなことを行う資格はないのです。生きて行けないようなことを想うことは勝手ですが、 「あの人のホームページを見たら生きて行けなくなった」などと他人のせいにはできないのです。あくまでも自分がどう生きるか?かなのです。 宗教は道徳ではないのです。

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極端なことを言わせてもらえば盗みを四六中考えていなくては
生きて行けない人は、盗みのことを想つづけてもらうしか仕方がないのです。(悪いことは、私自身考える)行えば道徳の問題なのです。 (誰も罰することができなれば道徳の問題)ハッキリ言わせてもらえばそのような人が居るとして、(居るか?どうか?は知らないが)想い当たる人はは、 教とは何か?理解できない人なのです。無理に説いても意味のない人なのです。しかし、批判を行ってはいけない。 「教説を聞いてはいけない、ホームページを見てはいけない」とも言えないのです。本来宗教は全て自己責任なのです。

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