」
一般には、己心の魔とは道徳的悪しきものとして理解されている節もありますが
私はそのようなものではないと思っています。固定的な姿ではないもと思います。例えば宗教指導者を志すような人達が、
何故、野盗、詐欺師に勝るとも劣らない。くだらない問題を引き起こし、個人や社会を害するのか? 考えてみれば、
例えとして、心の奥底に宗教人として仲間内から崇められたいとか、尊敬の念を勝ち取りたいと云った類の想い(念)が
存在するからだと思います。商人は多くの金を動かすことが誇りでありましょうが、宗教に於いては誇りとするところの
内容は違いますが、中身は人間皆同じなのです。
勿論それが全てではないにしても、混在していることは間違いないと思います。
しかも、当人はそのことに気付いていないことに問題が有るのです。表面意識では世のため人のため、愛をもって
尽くしていると思っているのです。己心の魔が(自分想念の中に有るもの)解かり易く自分以外の存在であると仮定すれば、
自分自身の本当の姿を観えなくさせている存在こそ己心の魔と言えるのです。その己心の魔の介添え要素が、上記例では
虚栄心に基づく自己顕示欲なのです。(自分が人々から崇められたいと思う想念)人々から崇められたいと思う想念が
そのままなら、本人が流されて増上慢になり、いずれは、人々の鼻につき非難されることになるのです。
自覚されていない想念が、実際に行為として形に現れるのはその時なのです。
崇められたいと云う気持ちを阻害された人を害したいと云う念になるのです。そしてこの念は名称を持たず、
特定の形は持ちません(火が燃えるとか、氷が張るとか特定の現象を起こす専用の念ではないという意味)その時その場に応じて
臨機応変に姿、形を変えて現象として現れます。要約すれば、要素・事柄を総合的に管理して操り、人を誤らせたり狂わせる存在
こそ己心の魔なのです。潜在意識に巣くう名称なき念こそ己心の魔であると、理解すればほぼ間違いないと思います。
悟った人を信仰して生きることを考えていただければ、「信仰をもって生きることと、
宗教理念をもって生きること」とは意味が違うことが解かります。
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