人間関係に於いて、信が崩れれば全ては白紙に戻るのです。
当事件に例をとれば、例えば、人質が全知全能のキャッチフレーズを信じて行為行動した結果、過ちを犯したとして、全知全能を信じられなくなれば、
当然行為行動の前提条件も異なってくるのです。と云うことは以前の言行と矛盾が生じるのも又、当然なのです。矛盾を指摘する方がおかしいのです。
指摘など気にすれば、遠隔催眠の自問自答で追い詰められるだけなのです。対処するには蹴たくってしまうより方法はないのです。
但し、不当に謝罪を要求された場合に備えて、(他事にかこつけてもできるから)現実的に対抗できる力の背景は準備しておく必要はあります。
矛盾を「気にしていては駄目だぞ!」と云うことです。
仮に公安調査局の調査を受けることになっても、上記説明で十分
通用するのです。当人が対象者の責任を追及する行為行動をとる、取らないも自由であり、相手から口出しできるものでは本来ないのです。
と云うことは私も人質の行為に関しては干渉できないのです。神が自分自身を偽るっていたなどと云うこと自体が、信を議論する対象とはならないものなのです。
もっと言えば、虚実を前提条件とした、出来事や事態に対しては、法律的に意味をなさないのだから矛盾を伴った言行があっても相手から、
提訴される心配ないと云うことであり、恐れるに足るものではないことを知るべきなのです。云いたいことを言えばよいのです。
以上に関しては人質に限ったものではありません。先に全知全能ではないことを暴露しなくてはいけないのです。
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