信とは己を信じるものであって、他との相互関係にあっては信じてもらえる
己を信じると云うことになります。信は求めるものでも与えるものでもないのです。信じてもらえなければ自分が未熟者であっただけなのです。
もつと言えば、信じてもらえる己を創るには他を信じなくては不可能なのです。他を信じない己を信じられるか?と云うことでもあります。
但し、以上については個人間のことです。「他を信じなければ、信を得ることはできない」と言った教説は、個人間の対話の中では問題はありませんが、
一般を対象とした、宗教理念としては不完全なものなのです。理由は主体性が自分以外の他に置かれているからです。
具体的な例として、騙されたり、嵌められたり、間違ったりする自分を他人に
「信じてくれ!」などと言えますか?と云うことなのです。叉、「信じられる己」は、相手を信じる信のみでは創れないのです。以上を勘案すれば、
「信じられる己」とは、人間一般の事象についても「信じられる己」でなくてはならなくなります。自分以外に信の主体性を置くと
「私を信じて下さい」「信じて欲しい」などと云う想いが生じることになりますが、これも特定個人間のことなら何ら問題はないのです。
何故なら特定個人間では言葉だけではなく、過去の経緯や互いの言行などの実績が前提とされて言葉となるものだからです。一般的な教義としては、
「私を信じて下さい」は間違いです。
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