魔とはこの世の悪人のことではないのです。例えば善人として人から良く
想われたいと云う気持ちが、即ち、魔なのですが見かけ上は善人として振舞っているのです。それも魔を心の中に伴なっている
だけであって、他人から良く想われたいと言う気持ちが全てではなく、表面意識(見かけ上)で善きことを行おと想っていることも
偽りではないのですから、言動に他人から指摘されるような好ましからざるものが無い限り善人なのです。
要するに魔とは人間ではないのです。心の中に巣くう好からぬ想念ですが、この想念にも自己防衛的なものから、他人を害する
ものまで様々にあるのてです。自己防衛的叉は生存本能に属するものは、却って潜在意識に押し込むことになりますだけが。、
あると云うことを、自覚していないと流され(俗にいうお調子にのる)ますので気をつけなくてはいけません。
人間は誰でも魔に類するような気持ちを抱くものであり、そのことは、反面
自己の成長にも役立っているのですから、それ自体は、魔に犯されているとは云えないのです。自分の心の中には、
どのような魔が同居しているか?判れば、魔は悪事はできなくなるのです。要は他人から、善人として崇められたいと云う気持ちに
囚われてしまってはいけないのです。バカでは、(感性の低い人は)尻尾がでるので魔的な行為はすぐにバレれるから、
子細な過ちは犯しても大きな過ちは犯しにくいものと、私は考えます。知能が高い者(いわゆるズル賢い者)の方が
一旦魔に犯されると大きな過ちを犯すことになるたろうと思います。
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どういうことかと言えば、悪意丸出しなら、それは魔ではなくて悪党なのです
上記心中の想いも、自己保存として許される限度内のものなら、魔とは言えないのです。限度内のものか?どうか?は
真理に適っているか?どうか?であり、真理は道理によってしか検証できないのです。この世は、方便の世界であると云う、
そのこと自体は、真理として捉えることができます。であるなら魔に犯されているか?どうか?の、最終チェックは、
この世のルールに適っているか?どうか?であり。その判断はここで初めて、自分ではなく裁判官などの自分以外の
審判者(人々の評価評判を含む)人に委ねられることになります。
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法律や道徳などのルールがあると云うことは、広い意味ではこの世では
全ての人間は、外部からの監視の元に生きていると云うことです。高橋佳子の目指したユートピア社会は、このような
外部からの監視ではなくて、それぞれの人に内在する神(私は良心の中に在るとしています)の力を借りて、自分自身の
監視のみで達成しようとしたものとも言えます。であれば、思想としては、頭から非難できるものではないのです。
人間の進歩の方向性を示したことにはなるのです。但し、高橋佳子は思想に片寄りすぎて、現実に問題で過ちを犯したと
観ることもできるのです。
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思想一辺倒ではなく、具体的現実問題に持ち込めば実際にできるか?どうか?
が問題になったのです。私の思うところでは、通常の人間であれば。自分の想念から魔を完全に除去してしまうなどと
云うことはできないのです。要するに魔の働きを積極的ななくそうとするのではなく、監視して(自覚して)旨くコントロール
すべきものなのです。消極的に対処すべきことがらなのです。理想を即座に具現しようとしてはいけなかったのです。
理想は、ゆっくり時間をかけて一つ一つ積み上げて行くべきである云うものが、高橋佳子に対する私の主張なのです。
魔は監視されなければ十分に、本領がハッキできるのです。犯罪は結果でしか
取り締まれないのです。あの人間は、いずれ大きな事件を起こすだろう。では取り締まれないのです。それがいけないことは、
オームの論理で、実際に証明されていることなのです。「あの人はいずれ大きな罪を犯すことになるから、
犯す前に殺してしまうことが、慈悲である」と云った論理が捏造されてしまうのです。魔は外部から監視できるだけであって
取り締まることはできないのですから、宗教的に指導されなくてはいけないのです。魔の概念が理解できない人は、
宗教指導には適していないのです。そう人は道徳指導でなくてはいけないのです。 2007年07月31日⇔楽天ブログより
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