幽霊を見たり、客観的には仮死状態となっていた人が、実は意識があり
この世のアチコチを見てきたなどと云う実例がある以上、霊的な存在は間違いないものと思います。しかし、
世間一般でも言われていますが、特にカルト宗教の言うところの霊的な法則や因果関係は、この世で生きている人間が、
この世の概念とこの世の因果で、(ありようから類推して)あの世を説明しているにすぎないのです。それは、
部分的には根拠のあることであり、部分的には全く間違っているとも言えないのです。
しかし、霊的な事象は深遠ですので、系統立った法則、因果があったとしても、この世に生きる者が、完ぺきに
判るようなものではないはずです。
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この世に生きる人間が霊的な法則、因果を含めた事象の意味が完全に判るなら
魂はこの世に転生する必要がなくなるのです。以上の説明も霊的な法則とも言えますが、魂の成長のために転生すると、
説明されている説以外の説は、矛盾することになります。霊的な事象は深遠で、この世に生きる人間の思考能力の限界を
超えているとしか考えられませんので、意味するところを深く考えない方がよいのです。しかし、後になって意味が判るものは
仕方ありません。しかし後になって判った自分の例を一般的な事象として、他人に当てはめることが危険なのです。
真実の世界では、この世的な外見では同じようでも、内容が全く違っていることがあるのです。
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唯、霊的な事象に対処するには、真理や愛を(霊的には愛を為すことが真理で
あることに間違いありませんが、この世的には間違った愛、本能の愛など、愛にもいろいろあります)基として考慮、
行動することが大切なのなのです。霊的な因果など、創話にすぎないのです。創話を基にして判断や行動をすれば、
間違うのは当然です。創作とも言える霊的な法則、因果を、この世的な現象から引用して説明されれば、理解もし易く、
納得もできますが、その納得こそかが間違っているのです。間違った説明を納得すれば、創話模糊の、
あの世の宗教的指導にはります。所詮、この世の概念を個人の思想で反映したものにすぎないのです。
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霊的因果を道徳や法律に絡めて、社会を指導することはできないのです。
瞑想で見てきたものは、個人によって異なっていても、どちらが正しいか?は法律外の問題なのです。言い換えれば、
特定の思想法律で取り締まるためには、思想を根拠として外部に出された、何が法律を犯しているか?なのです。
例えば、オームのポアの思想は法律を犯しているか?いないのか?考えてみればわかります。民主主義社会では
思想自体を取り締まることは不可能なのです。
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思想自体が法律を犯してないなら、手を加えれば、宗教でなくても
応用できることになります。ポアが殺すことでなくてもよいのです。単にお灸を据えることでもよいのです。誰でも応用
できるのです。一般的なことなのです。基本的には「オレが、お前に借金を返せなくなったのは、これこれの因果があるのだ」
と言うことと同じなのです。
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