広い世の中には、奇妙な人もいるものです。例えば、想念上で
性道徳を犯したとして、特定個人を対象とした誹謗中傷を想念上で行う行為です。想念上で誹謗中傷を行うだけなら、一般の第三者には知れることはないので、
犯罪(軽犯罪相当)として非難されることはなくても、特定の能力を持つ人には解ることですので、本質は犯罪行為なのです。
犯罪行為にならないためには想念上の性道徳とはどのようなものか、予め示しておかなくてはいけないと思います。私が想うに、
現実の性道徳を想念上に犯貼り付けただけの概念を、想念上の性道徳としているだけだと思います。想念のための想念による性道徳ではないのです。
私の例を示せば、私は性道徳など犯してはいないのです。
しかし、で実際に行えば性道徳に反することも想った事も少しはあります。多くはありません、但し、現実の性道徳は、
金銭などによる取引で行われたものを含まないことを前提としていすので、同じように、想念上のものでも除外できるものとして記したものです。
さらには、想念上の相手など合成写真のように好きなように創作できるのです。そのような相手でも性道徳を犯したとといえるのか?考えてから、
批判してもらいたいと云うことです。想念上の性道徳とする概念を示してもらう必要があると言うことです。
ユ
さらに人間には、自浄作用が働くのです。想念上のこととは
言え特定できるような人と姦淫を行えは、自己嫌悪が指すと云うものです。自己嫌悪が生じない人もおみえでしょうが、実際に対面すれば、
ストウカーような波動を相手に与え、現実には嫌われるのです。霊的に観れば、社会的にも自浄作用が働くるようになっていると捉える事ができるのです。
勿論、想念上でも自浄作用を無視することもできますが、本人が嫌われてもよいなら外部から口出しできることではないのです。
極端なものが現実の行為、行動に現れば社会的な制裁や法律の制裁を受けることになるのです。何を根拠に、想念の干渉を行う必要があるのか?そのことの方が、
追及しなくてはいけない問題なのです。
マ
上記に関することは、この世に生存する者が、想念上で
性道徳を犯すと云う概念について述べたものですが、性道徳を犯すとは、一般的には、不特定の異性と姦淫をすることと云うことになります。
では特定の相手なら、多数でもよいのか?と言うことになり、その概念すら簡単に説明することさえできないのです。
そもそも姦淫とは物質身体があって可能なことなのです。身体を持たない想念上で性道徳を犯したと云うことは、どうゆうことか?
姦淫すればどのような弊害が生じるか?云ういうことになります。道徳は弊害の生じないところには成立しないのです。
私見として、想念上の姦淫なるものの弊害を指摘すれば波動の問題になるのです。
波動として相手や周囲に悪い影響を与えるのです。勿論個々の
ものについては、色合いがあり、受け取る側の偏見の波動もあります。自分のものと一致しない理由だけで悪とすることは間違いです。ここのところは、
推測ではありません確かなことです。ああの世では身体さえ持っていないのだから、姦淫などできないのです。イメージとしての姦淫であれば、
本質はムサボリなのです。貪りを姦淫にすり替えていると云うことです。この世の想念上の姦淫も大略そのようなものと解釈できます。
しかし、想念上の性道徳と云うものはどのようなものか?は知りません。姦淫が貪りの象徴なら貪りに関する道徳であるべきであって、
想念上の性道徳など存在し得ないのです。
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