組織的な宗教活動の場に於いて、愛、許し、反省と云った宗教の具にされる
概念を指導の名の下に強制すると、(されると)純な感情が潜在意識に押し込まれ、表面意識に仮面の愛その他の概念を被って現れる(再登場してくる)のです。
その根本原因は、生命には自己保存を行う本能があるからであると、私は捉えております。そして再登場した仮面の概念は表面意識に錯覚を起こします。
そのような錯覚を反省によって見破らなくてはいけないのですが、その反省さえも仮面を被った、云うならば、偽の反省もあるのです。
その偽の反省の一つに心情露吐と云うものがあります。
そもそも宗教的な反省とは、害悪として現象化する以前の心の在りようも含めて、自分の間違いを正すことなのです。間違いがなければ点検したにすぎないのです。
反省したと云うからには、間違いがなくてはならないのです。間違いがないのに反省したと云うことは、おかしいのです。しかし、
潜在意識に間違いを認めたくない気持ちがあれば、表面意識に、そのような心の働きも生じ得るのです。しかも、ストレートには出てきません。
ここでもやはり仮面をかぶって現れるのです。その一つが心情露とと言えるのです。
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説明すれば、反省しなくてはならないようなことは、不都合なことや
困ったことが対象になるのです。心情露とには悪かったと云うものが欠けていたり、脇役に置かれていいたりするのです。
解り易く言えば、自分自身に言い分けを行ったものなのです。心情露吐か?反省か?を見破るには、悪かったと云う気持ちがあるか?どうか?なのです。
言動の方針を変えただけでは、反省とは言えないのです。にせの反省は、打算を尺度とした後悔にもすり替えられるのです。
反省の対象となった不都合な事柄の原因が、真実自分に在ることが認められないまま認めなくてはならない状況にいたることもあるのです。
そのような状況になれば、「悔しい」となり、目的が達成できなれば「無念」と云う心情が湧くのです。
そこで又、悔しいとストレートに想うことはできません。言葉にだせば、他人に対して告白することになるのです。告白する必要がなければ、
自分で心情を回想して反省ができたと錯覚しているだけなのです。これでは何の反省にもならないのです。解り易く言えば、後悔を懺悔にすり替えているだけなのです。
又、反対に強い反省の義務感は、自分が間違っていないのに間違っていたとする現象(自己虐待)も起きますので、注意しなくてはいけません。
2008年12月20日⇔木漏れ日の空間より
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