男女間の性に関した愛を、幸福の科学では本の愛位置づけていますが
普遍的な愛とは一線を画しておく必要のあるものだと思います。恋愛にや恋愛から発展して同棲生活や、それに順ずる関係にある人については、
愛(想い)だけで語ることはできません。又、お見合いなどの結婚に関するものでも同じであると考えられます。それらの事柄に関しては、責任や義務、
はては、関係が維持できるか?どうか?などの計算も組み込まれた、慈愛で捉える問題と考えます。言いたいことは熱々の想いだけでは駄目だと云うことです。
具体的な事例に関しては状況により、千差万別ですので、うかつには述べられないことです。しかし慈悲は愛よりも解かり易いと思います。
解り易言えば慈悲の要素を含んだ愛と云うことになります。
勿論、恋愛でも慈愛の要素がなくてはいけませんが、慈愛は
考え方のみで語れる概念ではないのです。慈悲とは、一口に言えば、おなさけのことですが、他人に対してなさけの情を抱くと云う概念である慈悲は、
時と場合によって無限に変化するものですので、一概に説明できるものではないのです。以上の説明に対してGLAなどは、それは違うと言うかも知れませんが、
独身女性に何が解かるか?と言いたくなります。愛が抱けなくなったら、離婚しなくてはならないような思想で、救世の事業ができるか?と言いたくなります。
離婚の結果、この世の生き地獄に落ちた人は多数いるのです。幸福の科学では、愛を上回るものは慈愛であるとは、聞いていますが、説明はむつかしいにしても、
体的にその内容は説明されていなかったと思います。やはり、最低限の説明は行うわなくては、聞く人が自分勝手に理解されるのです。
又、GLAでは、慈悲と言う概念がありましたので、併用すれば
離婚問題も対応できるとは思いましたが、慈悲は、愛と違い一方的なものですので、片方が片方に一方的に与えたり与えられたり、時と場合により行うことにるのです。
ここで一方的と云うことは、AさんがBさんに常時一方的に与えると云う意味ではありません。互いに与えたり、与えられたりしても、個々については、
一方的になると云う意味です。(愛は双方から同時に発することができる)GLAも先代教祖は、慈愛も説いていたように記憶します。唯、
具体的な説明はなかったよえに記憶します。 唯、言えることは、本能に基づく愛を普遍的な愛と同一視することは危険だと云うことです。
勿論、男女間の愛でも本能に基づくものでなければ、上記の限りではありませんが、判断は自分にしかできないのです。 2007年03月28日木漏れ日の空間より
|