善悪には道徳的なものと宗教的なものがあります。
道徳的善悪は盗みなどに代表される他人に危害をもたらす事柄です。ここで言う宗教的善悪とは、想うことの中身ですから、盗みたいと云う行為以前の気持ちのことです。
その気持ちが全然湧かない人は問題ないのですが、空腹に耐えられなくなれば、生命には自己保存の本能が備わっていいますので、盗みたいと思う想念が湧く方が、
自然な状態と言えるのです。目の前に食物が幻覚として現れるようにできているのです。盗もうとする想い(感情に識別されるもの)が湧くようにできているのです。
宗教的な悪とは、お地蔵さまに、小便をかけるような行為を指すのではないのです。その行為は道徳的な悪に識別されるものです。
何故なら行為によって現わされた現れた出来事は道徳として評価されるべきものなのです。他の側面から見ても、異教徒にとっては単なる道徳の問題に過ぎないのです
盗みたい想いが、状況などに照らし合わせて正当なものか?
否か?が、宗教に基づく善悪としなくてはいけないのです。そうでなければ、善悪など道徳に任せて宗教は消滅すればよいのです。
混同による混乱と誤解が生じるだけです。宗教的善悪は、に自分でしか判断ができないものなのです。最終的には良心に抵触するか?どうか?の取捨選択の分かれ目、
即ち、想うことについて、膳を取り悪を捨てるところなのです。又、良心の抵触にも個人差があり、外部から干渉や裁断すべきことではなのです。
但し、師事するなどで願い出られればその限りではありません。敢えて結論をつければ、感情の正当性に重きがあるのです。それでは正当化し易いではないか?
との反論には、(これこれの)事の正当化より想いの正当化の方が己を偽ることができないから難しいとお答します。
マ
悪を自覚的に行うことのできる悪党(悪を悪と知りながらおこなう者)
については、道徳として教導しなくてはいけないのです。どうゆうことか?と言えば、「他人の頬を打つことは、いけないことだから行ってはいけない」
と云うように教説するべきなのです。しかし宗教指導になれば、相手を矯正したいと云う気持ちで頬を打つなら、必ずしも悪ではないのです。
どうゆう気持ち(想い)で行ったか?が問題になり、又、如何に「あなたを正すために打った」と弁解しても、実際に打った相手が正しい人間として、
立ち直るらなくては詭弁にすぎないのです。想いの善悪は結果でしか判断できないのです。しかし、長期間にわたり想いの中身を検討して、
悪を捨て善をとる習慣が身につけば、結果は、100%とは言わないまでも出るのです。宗教の意義は、自他の感化にあるのです。
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ミ
自分を直せない者が他人を直せる分けはないのです。
正当化があ場合いは、正当化自体が想い(評判などを考えた)の一部分なのです。何らかの事、即ち、事態があって、その事を正当化したいと云うものが想いなのです。
正当化する対象がなくてはできないことなのです。しかし、取捨選択はできます。何を基準として取捨選択をするか?となれば、やはり善悪しかないのです。
どこの国の出来事かは忘れましたが、山中に不時着した旅客機の乗客が、餓死した仲間の肉を食べて生き残ったことが判明し、
ローマ法王はそれを許したとの事件も実際のあるのです。両者共に一つの選択をしたと言えるのです。高橋佳子の間違いは、取捨選択の箇所は正しいのですが、
取捨選択の物差しが、愛になっているのです。想いの中の愛こそが、(本当は善こそが)愛であるか?慾得であるか?を想いの中で検討しなくてはならなくなるのです。
判別できる分けはないのです。
宗教的な膳、即ち、想いの中の善は、目的その他の付属要因に
間違いがなければ、善イコール愛になっているのです。善を想うと云うことが
愛と云うことなのです。ですから、想いの中ではことさらに愛を選択するなどと云う事は無意味なのです。理由は、もう一度想いの中身を善悪ではなくて、
愛で点検しなくてはいけなくなります。同々巡りをするだけです。もっと言えば不可能なのです。結果でしか判らない想いの中身を、はじめの、
判断基準にできる分けはありません。私も最初から気づいていた分けではありません。GLA高橋佳子の間違いを点検してはじめて解ったことです。
愛か?否か?を外部から裁断する必要があるなら、言行から生じた-を現象を道徳の尺度で行うべきなのです。結果が善であれば元となっていた想いが愛あり、
悪なら愛ではなかったと解釈できるのです。 2008年12月20日⇔木漏れ日の空間より
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