幸福の科学では「善を採り悪を捨てよ!」と説いていましたが
大多数の会員は道徳の概念で受け止めていたものと思われます。説いていた大川総裁に取捨選択の箇所、即ち、想いの中身であることが解っていたか?
どうか?は知りませんが、解っていたなら、道徳的善悪との区別は、最低限説明しておく必要はあったと思います。説明がなければ、GLAの高橋佳子、
その他に解っていなとされても(間違っているとされても)仕方がないのです。私自身、当初は彼のキャッチフレーズを鵜呑みにして、
当然解っているものと思っていましたが、後になって結果から考えれば、解ってはいなかったであろうと思っています。理由は道徳的な善悪で取捨選択をすれば、
大義名分などの正当化が行われ、健康食品販売まがいの行為(実効のないもの、を実行があるごとく表示して販売する行為)も可能になるのです。
要するに、宗教心に基き良心が正常に働けば、想いの中身が
本当に看板通りの能力が有るか?どうか?と云ったことは判別でるはずなのです。良心の働きの方が、大義名分よりウエイトが大きくなるのです。
逆に、想いの中にある大義名分の方が重要であると選択したら、それは本末転倒であり、行為として現象化すれば間違うのは当然です。
公言に値する能力が自分にあると錯覚していても同じです。想念の中身を反省すれば、自分を偽った行為ができなくなるのです。
肖像写真の販売などの行為から判断すれば、想念の時点では反省がなされていず、大義名分により、正当化された想念上の行為(想像)を道徳を的に、
取捨選択していたと受け取らざるを得ないのです。
マ
もっときびしく言えば、法律に抵触するか?どうか?が、判断基準
とされていたとも解釈できるのです。法律に抵触するか?どうか?を判断基準にしたとするならば、想の間違いとは異質のものになるのです。
判断基準が魔の領域から悪党の領域に入っていると云うことです。(ここでは、悪党とは自覚しないで悪を行うのではなく、悪と知りつつ行う者を指します)
他方、会員と言えども、若年者や善男膳女に象徴される人達には、悪と知らずに悪を行うと云う概念は、理解しにくいことでもありましょう。
そのような人たちを対象とした教説は無意味と判断されれば、会員を選別して特別な会員だけに説いていたと云うことも、推測としては可能になります。
事実ならば、何のためにそのような選別を行うか?と云う疑問が生じます。
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宗教を指導すると云うからには、例え、理解できない人が居ても
一応は説明しておかなくてはならないことなのです。説明がなされていないと云うことは、不公平な行為と言えます。先に、
自分で勝手に他人の能力を断定してしまうことであり、想いの中身の取捨選択が善(愛)になっていかったか?間違った選択を行ったと言えるのです。
何のためにそのようなことを行うか?と云う疑問は、宗教を行っている人には、自分自身の想いの中で自問自答されるものなのです。
それが欠落していれば宗教を行っているとは言えないのです。以上の補足として・・、孔子の言葉とされる「我、心赴くままにして則を侵さず」
を提示させていただきました。これが悟に近い心境なのです。
但し、人間の創った則には間違いがありますので、則とは何か?
が問題になります。言葉は、多分自然に生じる弊害のないことを指しているものでしょう。この言葉を例にとって想念の対話を試みることにします。
「心、赴くままにして他人に害をもたらす」ような者が「悟っていると言えるか?」「悟ってると勘違いしているだけなのだではないのか?」
本来想念の対話と言うべき自問自答は、仮想の相手と行うものではなく、自分自身の邪(よこしま)な想いと善なる想い
とのやりとりなのです。その想念行為が宗教的な上級者の反省に役立つのです。指導者さえも、反省のための自問自答がなされていないと認識せざるを得ないのです。 2008年12月20日⇔再偏集
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