今もって、(2008年12月現在)GLA谷口建彦は、高橋佳子が
自分達では糾弾することさえできないのに、私を大川総裁から守っていたとして、良心には引っかからない節が感じられるのです。
(良心に引っかからないから、事件を引き起こしたのは自分達の責任であるとの自覚が持てないのです)それとも、神の権威を所有していると錯覚していれば、
当然のことながら、悪いのは自分達以外の者達であると錯覚するでしょう。すればそのようにもなるのです。自分の原因、責任はどこにあるのか?と言いたくなります。
以上については、仮に私の妄想であっても彼らから何ら咎められる
理由はないのです。彼らは私に対して、妄想(想像)されても仕方がない前提条件抱えていることは、間違いない事実なのです。
前提条件を逸脱していない想像なら何を口外しても咎められる、いわれはないのです。次に、対話形式で想像できるものを記すことにします。傍観的な関係者、
「佳子先生がヤルそうだよ!」私、「ヤリたければ、何でも勝手にヤレば、よいではないか!」つづいて、「何のために行いもしない預言をくどくど言うのか?」
「暗示にかかっているのではないのか?」
確かな、前提条件のある事態に関しては、推測に基づく想像、妄想は
とがめれば人権侵害になるのです。推測しかできない前提条件を創った方が、先に罰せられなくてはならないのです。真実の世界、即ち、
霊の世界では、推測しかできない前提条件を創った者の罪になるのです。事実関係の確認ができることに対しては、事実の内容の当否によって、
公開が正当なものか?否か?が問われます。しかし、それとは意味が違うのです。即ち、事実関係の確認ができるものを確認もしないで、
勝手に想像したものを公開するもとは異なるのです。
注:当事件は最低限人権侵害に相当するものなのです。そして、
人権侵害を足掛かりとして、事件の解決を阻害しているものがあれば、そちらは司法権侵害になるものと考えられます。
2008年12月25日 ⇔木漏れ日の空間より
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