人間が何らかに関して謝罪すると云う行為は、本来は相手に関して
良心の呵責を受けた場合に、謝罪せざるを得なくなる行為であるべきなのです。ところが、現実には、損得打算により、
本心とは裏腹に口先だけで謝罪すば場合があります。言葉だけの謝罪は、あの世に還れば通用しなくなるのです。この世においても、
一旦、謝罪した以上本心からか?打算によるか?は関係なく、謝罪した相手の意向には従わざるを得なくなる。又は、従うべきとする不文律があるのです。
相手に謝罪できる間は未だ、償うこともできますが、矛盾を創った原因により、相手に謝罪できなくなった場合は、この世では、
国の責任管轄当局(自分の所属する組織の)に謝罪してもらうことになります。しかし、この世においても、霊的には、神に謝罪するしかないのです。
云うならば、国と神の両方に謝罪する必要が生じるのです。
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上記から帰結される事態は、この世にまします生き神様の概念が
非常に重大な意味を持つのです。生き神様にうかつなことはできなくなるのです。全知全能は受け入れられないとしても、
それなりの超能力は所持していてもおかしくはないのです。理由は、あの世からこの世に転生する条件は、自分が選ぶものとする説は説得力があるからです。
仮に生き神様があの世で神に謝罪しなくてはならないはめになり、許されて転生するにあたり自分で条件を決めるならそのようになっていてもおかしくはないのです。
超能力を持ち自ら神と自称しているから悪魔とは断言できないのです。あの世又は、この世での想念行為(自問自答又は、テレパシーによる他との問答)
に関して、神に謝罪して許してもらうと云うことに関して述べれば、つぎのようになります。
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神は、目前に姿を現わして許すなどと言葉では言わないはずです。
理由は、悪魔が神に変装してでてくる場合があるからです。心底から謝罪すれば、良心の呵責が消えるだけだと思います。但し、信仰を持っている人は別です。
例えば、イエスが目前に現れたと云う現象はあり得ると思います。人間は、自分で条件を決めて転生してきたなら、自分が神であると称して、
それなりの超能力を所有する者が出現しても、一概に悪魔であるとは断定できないのです。イエス・キリストも、あの世に還ってから神の称号を得たとも言える
のですが、信仰者の間では神と位置付けられていることも事実です。唯、神に謝罪すれば、無条件で許され、条件は自分で決めるにしても、
償いを行わなくては、良心の呵責は消えないと思います。償いを行わなくてならないことと同じなのです。無条件ではないのです。
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ところが、償いの行為を忘れたり、錯覚して本来行うべき行為から
次第に外れて行けば、如何に正当化しようとも、又良心の呵責を受けることになるのです。この世に於ける想念現象では、
該当する謝罪対象に謝罪しないで頑張っていれば、いずれ又、神に謝罪しなくてはならなくなるのです。神は罰することはないとも言われていますが、
以上のような事態を繰り返していれば、自分から超能力を返上するか?さらに頑張って所持するか?の二つに一つの選択になると思います。
返上すればよいのですが、返上しなければ強力な超能力を所持したまま、不徳行為を続けねばならなくなるのです。このような状態になれば、
客観的にも悪魔と見られるようになるのです。逃れることができなくなるのです。
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しかし、主観的には未だ頑張れるのです。即ち悪魔は神の化身と云う
論理なのです。この説明も客観的に観て一概に否定することはできないのです。又、神の化身を正当化するには都合のよい概念もあります。
それは上から下は見えても、下から上は見えないとするものです。この概念も事実であり否定することはできません。しかし、鵜呑みにすれば良心の
発露ができなくなるのです。例えば会社のために良かれと想って行ったことが、社会のためには良くないことであったと云うことが起こり得るのです。
想念上の問答に置き換えれば、「お前は視野が狭い」と云うことになるのです。下から上が見えないと云う概念は盲目的な服従を強いることも可能になるのです。
いわゆるマインドコントロールができるのです。
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上記を老齢のいわゆる善男善女の方に解り易く説明するとすれば
以下のようになるのも止むを得ないのです。即ち、良心に呵責があることは、神にお詫びして指示に従うことになるのです。(この世的には自分の非を認めることになる)
あの世で地獄に行ったら、神にしか助けを求められないことになるのです。したがって、この世にまします生き神様に、うかつなことはできなくなるのです。
以上に付いても、あの世が在るとの立場で記したものであり、この世にまします生き神様が本物か?どうか?が、大変重要になるのです。
しかも下から上は見えないのだから、(論理にしても、波動にしても、その他何に関しても)東洋的ではありますが、乞食と聖者を取り違えることもあり、
神と悪魔の判断は安易にはできなくなるのです。
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他方、神は良心の中に存在するのだから、良心の発露人によって
制限されるとなれば、人間は神の前に平等であるとする、古代から民族、宗教の違いを超えて、人類が共有してきた概念に反することになります。
宗教そのものの存在さえ危うくなるのです。したがって、「下から上が見えない」は間違いではないけれども、上の者は下の者の良心の発露を
妨害してはいけないと云うことになります。即ち、「会社のために良かれと想って行ったことが、社会のためには良くないことであった」としても
上の者は、特定個人を「お前は視野が狭い」と責められないのです。
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例えば、会社を管理、指導できる立場の人は、社会のためにならないような
ことを会社に指導したり、放置していたはいけないのです。だから個人は、自分の理解できる範囲内で良心の発露をすればよいのです。
誰からも非難されるいわれはないのです。もっと言わせてもらえば、「この世的にはオレがお前に謝罪しなくてはならないが、お前とオレの関係は、
お前は知らないだろうが、もう一段深い霊的なところでは、カクカクシカジカになっており、お前の方が謝罪しなくてはならなくなるぞ」などとは、
誰も言える資格はないのです。以上に関しては私個人の想像から創作した思想であり、霊的真実とは断言いたしません。
そもそも、霊的真実など誰も知らないのです。
尚、神は推し測れないことと、想像できることとは、矛盾しません。
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